取り立てて、ブルジョア民主主義革命のことを指してはいませんが、『明治維新で終わっています。』と云う、銀河さんの規定もこれまた変ですよ。明治維新は、武士階層支配の体制内で上層と下層が逆転しただけで、非抑圧階級が国家権力掌握したわけではありません。したがって、これを「ブルジョア民主主義革命」と云うのは誤りです。その後の日本の近代化を見ても、天皇制絶対主義による収奪と抑圧の国民支配のもとで、官僚主導で独占資本主義を急速に育成したのではありませんか。また、領主と農民の関係においても、地主と小作人の関係に置き換わっただけです。この半封建支配体制は絶対的天皇制軍事支配のもとで、国民抑圧と海外膨張侵略の植民地主義の日本帝国主義として1945年まで継続したのではありませんか。まあ、無理にこじつければ1945年敗戦後の日本の民主化の過程。すなわち、現憲法の施行がタナボタ式「ブルジョア民主主義革命」と云えなくもないことでしょう。その意味で、私は社会主義制度に至る道筋を「民主主義革命」と云いましたが、どうも銀河さんには、お気に召さなかったようです。「社会・u毆)主義革命」の言葉は、国家資本主義や官僚支配主義と一党独裁支配をイメージします。そのような、とんでもない誤解を招きやすい言葉はなるべく避けたいのです。どうぞ、社会主義社会実現に至る「人民民主主義革命」の言葉に差しかえてご理解ください。
>実は最も強く暴力革命を主張したのはマルクス、エンゲルス、レーニンです。マルクス主義のこれは魂なのです。
マルクスやエンゲルスが、実証的に検分したのは19世紀中期のフランス革命と、当時生まれてまもない、まったく無権利と過酷な労働に置かれた労働者階級と資本主義制度の実情ですよね。産業革命発祥後の古い封建制度と新しい資本主義が共存しながら相克していた時代のことです。
レーニンにしても、ツアーリズム・ロシアの絶対封建支配と勃興するロシア資本主義の帝国主義支配の時代背景のなかで実証的に捉えたことです。いずれも絶対的非支配におかれる側が生存の可能性を賭けて、暴力的に絶対支配権力を転覆する以外に方法のなかった時代のことです。私は、それでも「暴力革命が革命の魂」だとは云っていないと思います。そこから何を学ぶかは大切なことだと思いますが、19~20世紀初頭に検証され必要とされたことを、現代と未来に置き換えるのは根本的な誤りだと思います。古典から何を学ぶかは、あくまでもその時代背景を前提に想像してです。銀河さんのように古典文献の文章行間を「絶対視」するのは、認識のあり方として危ういことだと思いますがいかがですか。
>今日反テロリズムを大声を上げて非難するやからはブッシュや小泉たちのように反共主義者です。
共産主義者を自認される銀河さんが、そのように云われるのはとても奇異だと思います。なぜなら、非支配と抑圧の側にいるものは本質的にテロリズムと無縁なはずです。歴史を辿って見ても、そのテロリズム発生の初期のアナーキズム的影響を除いて、テロリストは必ず政治的陰謀や謀略の産物として立ち現れてきます。これらが民主的諸要求実現を掲げる側にとって、その運動にとってどのようなマイナス波及効果を及ぼすか、是非お考えになってください。グローヴァリズムの覇権主義に立つ、ブッシュ政権や小泉政権の反共主義による支配体制側からの反テロリズムと同列に論じようとするのは、とても無理があると思いますがいかがですか。また、そのやむにやまれぬ生存と存在を賭して抵抗する、レジスタンスとテロリズムを同列に論じることはできません。
>憲法擁護の戦いが大きくなればデモに機動隊が襲い掛かるでしょう。それ以外にさまざまな弾圧が襲い掛かるでしょう。暴力を否定してみたところで暴力に組み伏せられる。
これは是非一度、銀河さんにお訊ねしてみたかったところです。芸術は爆発ならぬ「革命は暴力だ!」と主張されて果たして、どれだけの賛同を得られたでしょうか。私の想像では、ほんの一部の急進的人士の仲間内以外は無視されるか、一部反対意見をぶつけられるでしょう。まず、暴力革命肯定では、諸要求に根ざした運動をはじめようにも、変人奇人扱いで見向きもされないのが実情でしょう。
まぁ、本心を包み隠して、とりあえずその場を取り繕って迎合してみせる。どこかの党派よりはよほど正直で好いと思いますが。しょせんは、その程度でしょう。
銀河さんの云われる、『責任ある自覚した人間のあり方』とは、己の判断や責任とその身を他者に委ねることではありませんよ。従って、運動の指導者に盲従するなどもっての他です。自覚的に参加することを除いて、他にありようがないわけです。運動に参加するのは、己自身ですから、共産党に守られたいなどとは誰も望みませんよ。とりわけ経験豊富な、銀河さんなら先刻承知のはずです。
まず、「運動を組織して指導する」などとカビ臭い古い組織論的発想に囚われ、妄想をめぐらせる考えをお捨てになったら如何ですか。
当面する切実な要求があれば、その目前の要求に団結できるでしょう。その要求実現のために、誠実に運動に加われば良いわけです。そこになにやら胡散臭い、別の意図を持ち込むから団結や連帯や運動の発展を阻害するのではないですか。要求に根ざした運動が大きく発展・高揚すれば、たぐいまれなる優れた活動家達がいくらでも出てきますよ。それこそが、弁証法的唯物論の運動法則ではないですか。
はっきり云いましょう。階級闘争理論のあるなしに関らず、国家権力奪取=社会主義二段階革命論など最悪の妄想・夢想に過ぎません。共産党前衛論などは「百害あって一利なし」の、まさしくレーニン主義の悪しき弊害そのものです。そこから導き出される、自己批判を持たない共産党信奉や科学的社会主義論(マルクス・レーニン主義)、共産党無謬論や一党独裁主義こそが、人民の利益や民主主義社会の発展にそぐわない、人類社会の歴史的発展を阻害する独裁的支配の論理です。過去の産業革命は150年以上もの時を刻んで、人類社会発展の歴史を塗り替えてきました。民主主義によるたゆみなき社会変革こそが、社会発展法則にかなうものだと思います。
銀河さんに、いつの日か日本の社会主義革命成就、すなわち、政治権力奪取とプロレタリアート独裁(執権)成立の後に来るべき。具体的なこの国の社会の仕組みについて、詳しくその未来像を語っていただきたいものだと期待しています。