パレスチナ、レバノン、イラクへの侵略情勢が緊迫する
時以外にあまり国外の情報は入ってこないことが多いが、実際
はその他の国や地域でも様々なことが起こっている。
世界の出来事の大半はニュースに載らないが、重要なことも
多い。新聞・テレビで報道される人権侵害や労働運動は世界の
出来事のほんの一部である。全世界に報道される氷山の一角の
部分だけでも十分にひどい言えるのである。
今回はミャンマーでここ数年起きたことを紹介したい。
第90回ILO総会(2002年6月4日~20日、ジュネー ブ)に関する
アムネスティ・インターナショナル報告書
AI-index: IOR 42/001/2002
2002年5月1日
ビルマ(ミャンマー)
アムネスティ・インターナショナルは2002年2月から3 月にかけて、タイ国内の様々な地点で、シャン、アカ、ラフ、 バマー(ビルマ)、モン、タボイ、カレンの各エスニック・グ ループに属する難民と移民労働者100人余りにインタビュー を行った。
インタビューを受けた人の過半数がビルマ(ミャンマー)軍 のための労働を強制されたことがあると答えた。また強制労働 については、件数が減少したと述べる人がいる一方で、インタ ビューを受けた人の大半はアムネスティ・インターナショナル に対し、昨年一年間の間に(ごく最近の2002年2月との回 答もあった)、強制労働を行わなければならなかったと述べた 。
アムネスティ・インターナショナルは、ビルマ(ミャンマー )政府と国際労働機関(ILO)が2002年3月に同国内の ILOのプレゼンス拡大について合意したことを歓迎する。こ の合意に従い、2002年6月までにリエゾン・オフィスが設 置されることになった(勧告10を参照)。
http://www.burmainfo.org/AI/IOR_42-001-2002_jp.html
東京財団イスラム圏リポート
No. 68 「タイ政局の混乱と南部自治化」 2006年06月28日 より抜粋
■アルカーイダ“自爆テロ要員”がクランタンに潜伏
不安要素は、タイ独自のものだけではない。4月、10人のア ルカーイダ・メンバーがミャンマー入りし、少なくとも50人の ミャンマー・ムスリムの若者を“自爆テロ要員”としてリクル ートし、マレーシアに向けて出国させた。現在マレーシア北部 クランタン州に潜伏し、訓練を受けているとみられる。
アルカーイダ・メンバーのミャンマー入国経路はインパール (インド)から国境の町タム(ミャンマー)を経てマンダレー へ。大東亜戦争時の「インパール作戦」の逆流ルートで、リク ルートの舞台はマンダレー近郊のチャウセだった。イスラーム の高等教育機関が集中する言わばミャンマー・ムスリムのセン ターである。
これまでミャンマーにおけるイスラーム危険分子といえば、 半世紀にわたってラカイン州(バングラデシュ国境)で反政府 武装闘争を続け、アルカーイダと連繋している「ハルカット」 との関係が深いローヒンギャー族とみられていた。もっぱらこ ちらの方に気をとられていたミャンマー軍政の戸惑いは隠せな い。
旧ソ連、東欧で国内に問題が起こると、その不満のホコ先は ユダヤ人に向けられる。ミャンマーのそれはイスラームに向け られる。ここ数年、異民族、異教徒のコントロール能力を失っ ているミャンマー軍政は摩擦を恐れ、ムスリムのマレーシアへ の出稼ぎを奨励していたが、こうした政策が自爆テロ要員の出 国を容易にした。事態を重くみたミャンマー軍政は警察を総動 員し、ほぼ全ムスリム家庭で聞きとり捜査をし、家族全員の写 真も撮った。
いま、中国、パキスタンの支援を得て、秘密裡に核施設を建 設中(新首都ピンマナ近郊)のミャンマー軍政は、若者たちの 爆弾をかかえた「Uターン」を極度に恐れている。
http://www.tkfd.or.jp/news/islam/43_20060629_1.shtml
|ビルマ(ミャンマー)|
▼イスラム教徒への人権弾圧が今なお続くビルマ(12/06)
ビルマ西南部アラカン州に住むイスラム教徒のロヒンギャー 民族の若者は結婚禁止という差別を受け、これに違反した者は 重いペナルティーが科せられる。人権侵害を監視する団体「Arakan Project 」の主任研究者Chris Lewa氏は「今年に入り少なくとも5組の カップルが、地元当局の許可なしに結婚したとして逮捕・投獄 されたと聞いている」と語った。実際、結婚するにはNasaka隊 や移民当局を含む4箇所からの許可を得なければならない。イ ンターネットから配信されるニュースの編集員Fayas Ahamed氏 は「この許可書を得るまでに2、3年はかかるうえに各当局で 賄賂を払わなければならない」と語る。
しかし、この政策も国家平和評議会(State Peace and Development Council: SPDC)で有名なラングーン軍事政権がロヒンギャー民族に 課した数多くの迫害の1つにすぎない。アラカン州への食糧の 流入阻止や移動自由の制限など、ロヒンギャー民族への集団的 迫害が表面化していることで、自治体の指導者はラングーン軍 事政権を「民族浄化」の罪で告訴せざるをえない状況にある。Arakan Rohingya National Organization の会長Nurul Islam氏は「ロヒンギャー民族はまるで強制収容 所で生活しているかのようである。SPDCの彼らへの偏見と 差別が、アラカン州からバングラデシュへ多くのロヒンギャー 難民を出した原因となっている」とIPSの取材に応じて語っ た。
Lewa氏によれば、ロヒンギャー民族のように貧しい村民は、 国連世界食糧計画(World Food Programme:WFP)が分配す る食糧援助を受けるため移動許可書のお金を支払わなければな らない。Nasaka隊や軍はアラカン州や周辺地域での米の取引を 禁止した。これによりロヒンギャー民族は現在、米の収穫不足 や移動の制限のため「食糧危機」に直面している。8月WFP 代表は、食糧配給の制限がアラカン州の子供たちの深刻な栄養 失調の原因であることを明らかにした。
アラカン州におけるイスラム教徒のロヒンギャー民族の実情 について国連に訴え続けてきたヒューマンライツウォッチ(H RW)は「アラカン州ではイスラム教徒に対する迫害が政府軍 により組織的行われている」と02年の報告書で述べた。ラン グーン軍事政権は、現在も135の諸民族から構成されるビル マ国民の中にロヒンギャーという民族は存在しないとする立場 を崩していない。
結婚の禁止や移動自由の制限といった、ビルマにおけるロヒ ンギャー民族への迫害の現状とその背景、専門家の諸議論につ いて報告する。<原文へ>
IPS関連ヘッドライン(ビルマ少数民族):
http://www.janjan.jp/world/0506/0506308984/1.php
http://www.janjan.jp/world/0506/0506118215/1.php
往きも帰りもビルマ(ミャンマー)をまたぐ~チッタゴンへの 旅~
シュエバ・エッセイ番外編(1)
2004年7月
シュエバ(田辺寿夫)
弾圧と迫害を逃れて
1962年3月2日、クーデターでウー・ヌ首相から政権を奪った 当時の軍参謀総長ネウィン大将がビルマ社会主義計画党(マサ ラ=BSPP)の一党支配による軍部独裁体制を布くなかで、 ロヒンギャー民族の運命は暗転した。ジラーニさんの話によれ ば、ネウィンは、英領植民地時代にビルマへやって来て、とく に経済の分野で重要な位置を占めていた中国系、インド系の人 たちを追い出すなど偏狭なナショナリズム(ビルマ族中心主義 )にもとづく政策を推進した。ネウィンはまた、ベンガル湾に のぞみ、インド、バングラデシュ(旧東パキスタン)に近く、 地政学的にきわめて重要なラカイン州からイスラム教徒である ロヒンギャーを駆逐しようとした。
昔から先祖代々この地に住んでいたロヒンギャーであっても 、バングラデシュからの不法移住者・不法滞留者とされまっと うな市民権は与えられなくなった。そして、軍の作戦を理由に した強制移住、ポーターとして部隊に同行させる強制労働、国 軍兵士による暴行・略奪、資産やエビ養殖などの事業の接収、 バリー(イスラムの礼拝所)の破壊、往来の制限、医科大学や 工科大学、それに教育大学など就職に直結する大学・学部への 進学を許さないといった教育機会の差別・・・さまざまな苛酷 な弾圧が加えられた。
1978年と1991/92年には「不法滞在者」を摘発するという軍 の作戦をきっかけに、それぞれ数十万のロヒンギャー民族の人 々が故郷を離れ、国境のナフ川を渡ってバングラデシュへ難民 として流出した。今、そうしたロヒンギャーの多くはUNHC Rが進めた帰還再定住計画にもとづいて故郷へ帰ってはいるが 、ジラーニさんによれば軍事政権の迫害は変わっていないとの こと。
それでもロヒンギャーの人たちは民族の権利と民主主義を求 めてたたかっている。1963年、ヤンゴン大学卒業後、バングラ デシュと国境を接する故郷マウンドーに帰って高校教師をして いたジラーニさんは1988年の民主化闘争に参加した。1988年9 月18日、国軍の国権掌握後、結成された国民民主連盟(NLD )のラカイン州支部中央執行委員となった。ヤンゴンのNLD 本部から直接の要請があったからだという。アウンサンスーチ ー書記長はNLDの活動を推進するにあたって、父アウンサン 将軍とともに独立闘争をたたかい、独立後のビルマの政治をに なった旧パサパラの政治家たちやその子息たちを大いに頼りに していた様子がうかがえる。
逆に政府当局の方は議会制民主主義時代の著名な政治家の子 息であるジラーニさんの動向に常に警戒を怠らなかった。故郷 に帰った1963年から1988年までの間に7回にわたって逮捕・連 行され、ロヒンギャーの反政府武装闘争組織とかかわっていな いかどうかを調べられたという。
1990年5月27日、そのパサパラが大勝し、ジラーニさんの父 アブール・カイアーさんが当選した選挙以来、複数政党制とし ては30年ぶりになる総選挙が行なわれた。ジラーニさんはNL D公認候補としてマウンドー第二選挙区から立候補したが落選 した。当選したのは、ロヒンギャー民族によって結成された地 域政党から出馬した候補者である。ひたすらロヒンギャー民族 の権利拡大をいうばかりでなく、ビルマ連邦全体の民主化をめ ざそうとするジラーニさんはロヒンギャーのなかでは穏健派と 見られているのだろう。
それでも軍事政権からすると、ロヒンギャー民族のであるば かりか、頑強に民主化を訴えるアウンサンスーチーが率いるN LDの幹部でもあるジラーニさんは目障りな存在である。1992 年にはマウンドーでゴルフ場爆弾事件があった。ビルマの片田 舎にゴルフ場があるとは奇異にきこえるかも知れない。長年ビ ルマの独裁者であったネウィン(2002年死去)がゴルフ好きだ ったことから、ゴルフをたしなむ軍幹部は多く、軍の駐屯地周 辺にはおおむねゴルフ場が設けられている。そのほとんど軍人 専用ゴルフ場に爆発物が仕掛けられているとの「通報」が軍情 報部(MI)にあった。爆発物を仕掛けたのはNLDの仕業だと され、マウンドー地区のNLD書記長は逮捕されたうえ拷問に よって死亡した。すべては軍がよくやるNLDを潰すためので っち上げだとジラーニさんたちは見ている。それにしてもNL D幹部であるジラーニさんにもMIの追及の手がのびてきた。 間一髪、ジラーニさんは逮捕にきたMIの手を逃れ、バングラ デシュへやって来たのである。
2006 Burma Information Network- Japan (www.burmainfo.org)