「ただし、その民主主義革命の道筋における「暴力革命」の是非ですが、私の基本的な考え方は「民主主義革命を求める側に、暴力行使の必然性は皆無だ!」
民主主義革命というのはなんですか。民主主義革命はブルジョア革命のことですし、それならば明治維新で終わっています。これを社会主義革命と読み替えてみて「はい、賛成多数です。したがって今日から日本を社会主義の国家にいたします。」こんなことってありえるのでしょうか。資本家が国会決議に従って工場や土地や機械を手放すのでしょうか。社会主義革命ならばこんなことはありえない。民主主義革命とやらなんだかわけのわからない革命ならばいざ知らず。革命というのはある階級から階級に国家権力を奪い取ることなのですが民主主義革命には階級問題はオミットされているのでしょうか。それならば革命ではないのです。
「けだし、自らがその犠牲をいとわないとする「犠牲的革命精神」とは、また別次元のことです。野蛮なテロリズム容認・肯定は云うに及ばず、暴力革命論や暴力革命肯定論を容認、あるいは吹聴するのは、己の存在を枠外において詭弁を弄する全く信頼に値しない者、ないしはガリガリの教条主義者です。」
実は最も強く暴力革命を主張したのはマルクス、エンゲルス、レーニンです。マルクス主義のこれは魂なのです。
「己の存在を枠外において詭弁を弄する全く信頼に値しない者、」
マルクスもエンゲルスも「己の存在を枠外において詭弁を弄する」まったく信頼の置けないやつになるのでしょうか。マルクスの人生の多くは書斎か、図書館にいました。レーニンは自身をマルクスの教条主義者であってもいいと書いています。
今日反テロリズムを大声を上げて非難するやからはブッシュや小泉たちのように反共主義者です。
「当面する諸要求や憲法擁護の圧倒的な国民的民衆運動を構築して、社会的不条理とすべての暴力と暴力的支配を封殺することが求められていることだと思います。」
憲法擁護の戦いが大きくなればデモに機動隊が襲い掛かるでしょう。それ以外にさまざまな弾圧が襲い掛かるでしょう。暴力を否定してみたところで暴力に組み伏せられる。結局暴力に反対するばかりではなく暴力に抵抗する人民に対してあなたの論では敵対するのではないでしょうか。これは大同団結ではなく分裂主義ではないのでしょうか。改憲には国家権力は全体重をかけてきます。私たちは自ら戦いの手段を平和主義だけに押し込めるならば改憲は阻止できないでしょう。敵の暴力に対して戦いに加わる人たちを守ってゆく、これが責任ある自覚した人間のあり方ではないか。それとも機動隊に「乱暴しないで」とお願いするのですか。機動隊が人民に襲い掛かっている最中にそれを横目で見ながら三里塚闘争のように「鳩よ」と歌うようならば人民は共産党を見捨ててゆくのではないでしょうか。戦いが小さければ機動隊の暴力も「問題なし」としてないでしょう。敵の暴力を引き出すほどの戦いがなくてはならないと思います。