まず、油井氏が処分後25年も経ってなぜ離党せざるを得なかったのか「汚名」の引用から始めたいと思う。
「事件」見直しに対する党中央の態度
私は昨年二月(1998年)、党規約第三条にもとづき、新日和見主義「事件」の見直しを行う意向があるかどうか、不破哲三委員長に質問書を提出した。略
私は査問後、党中央はこの「事件」でとんでもない判断ちがいをした、と次第に確信をもつようになった。そして、党に自己改革性があるなら、やがて見直しが行なわれるだろうと考えた。略
質問の理由は次の点であった。
一、党中央は当初、国際共産主義運動の一部の干渉者に盲従、依存する分子が分派活動を行ったと認定したが、新日和見主義にそうした国際的背景はなかったこと。
一、党中央の文献によれば、新日和見主義が主張したとされる理論問題について、それらがあたかも新日和見主義被処分者総体の主張であったかのように批判していること。また、「・・・・の傾向」とか、「一部に・・・・」などの論述がみられ、その結果、何を批判対象にしたか不分明になっ ている場合もあること。あるいは、新日和見主義が一般教養を高めることや学習活動に「徹底的に反対した」などの重大な歪曲があること。
一、査問方法に行き過ぎた手法がとられ、被査問者の供述内容の任意性に疑問がみられること。
一、当時の民青中央委員会に、中央常任委員を含む複数の中央委員が公安警察のスパイとして潜伏し、同事件を挑発した形跡がみられること。
一、被処分者の総体を組織的実態のある「分派」とみなした点で重大な疑問があること。
私はこの質問で、すぐに見直しが行われるというより何らかの逆質問、または聞きとり調査くらいなされるだろうと思っていた。そして、そのような場合、党内手つづきに従って自己の見解を述べようと考えていた。
しかし、党中央は私の見解を聴く意思はなかった。質問の理由にはこたえず、その意向がない旨、書記局の指示で訴願委員会が一一行ほどの回答書を送ってきた。私の質問は不破委員長に行ったものであり、訴願したものではなかった。従って、同委員会からの回答は意外かつ不満だったが、委員長の意向を伝えたものと判断した。
私はあれこれ考えた末、新日和見主義「事件」の体験を語ることが、今後の党体質の改革に好ましい結果をもたらすと考えるに至った。(汚名 油井喜夫)
日本共産党の規約の民主集中制及び党員の義務と権利の部分を抜き書きしてみよう。
(三)日本共産党の組織原則は、民主主義的中央集権制である。
党内民主主義の保障は、党員および党組織の積極性と創意性をたかめ、自覚的な規律をつよめるとともに、党内のゆたかな意見と経験を集約し、個人的指導を排して集団的指導を実現し、党の指導力をたかめるためにかくことができない。
しかし、このような党内民主主義が、党の中央集権制と正しく統一されてこそ、党は、団結をつよめ、強力な実践力を発揮することができる。
決定に対しては、少数は多数にしたがい、下級は上級にしたがい、積極的にこれを実行しなくてはならない。
党員は、党内民主主義を無視し党員の創意性をおさえる官僚主義や保守主義とたたかうとともに、集中的指導をよわめる無原則的な自由主義や分散主義とたたかわなくてはならない。
党の指導原則は、集団的な知恵と経験にもとづく集団指導と個人責任制の結合である。略
第二条 党員の義務は、つぎのとおりである。
(一)全力をあげて党の統一をまもり、党の団結をかためる。党に敵対する行為や、派閥をつくり、分派活動をおこなうなどの党を破壊する行為はしてはならない。
(二)党大会、中央委員会の決定は全文書をすみやかに読了し、また、日々の「赤旗」をよく読んで党の政策と決定を実行し、党からあたえられられた任務をすすんでおこなう。
(三)大衆のなかではたらき、大衆の利益をまもって大衆とともにたたかい、党の政策と決議を大衆に宣伝し、党の機関紙や文献をひろめ、大衆を組織し、党員をふやす。
(四)科学的社会主義の理論と党の諸決定の学習につとめ、自己の理論的、思想的、政治的水準をたかめる。
(五)地位のいかんにかかわらず、党の規約と規律をかたくまもる。たえざる修養によって高い品性を身につける。
(六)批判と自己批判によって、党活動の成果とともに欠陥とあやまりをあきらかにし、成果をのばし欠陥をなくし、あやまりをあらため、党活動の改善と向上につとめる。
(七)党にたいして誠実であり、事実をかくしたり、ゆがめたりしない。
(八)敵の陰謀や弾圧にたいし、つねに警戒し、党と人民の利益をきずつけるものとは積極的にたたかう。
(九)党の内部問題は、党内で解決し、党外にもちだしてはならない。
第三条 党員の権利はつぎのとおりである。
(一)党の会議や機関紙で、党の政策にかんする理論上、実践上の問題について、討論することができる。
(二)党の政策と活動について提案をおこなうことができ、創意をもって活動する。
(三)党内で選挙し、選挙される権利がある。
(四)中央委員会にいたるまでのどの級の指導機関にたいしても質問し、意見をのべ、回答をもとめることができる。
(五)党の会議で、党のいかなる組織や個人にたいしても批判することができる。
(六)党の決定に同意できないことがあるばあいには、自分の意見を保留し、また指導機関にたいし、自分の意見を提出することができる。ただしそのばあいも、その決定を無条件に実行しなくてはならない。
(七)自己にたいして処分の決定がなされるばあいには、その会議に出席することができる。
普通分派が形成された場合、党中央と反党分派集団は政治的にも組織的にも和解し難く対立する。激しい理論闘争が展開され膨大な文献が発表される。私自身も毛沢東盲従分子との闘争を経験している。大塚有章、ぬやまひろし(西沢隆二)、山口県委員会左派それに対する党中央からの批判など論争自体が激しく長期にわたったため、かなりの論文が出版され、対立点も明確になっている。中でも「極左日和見主義の中傷と挑発」は論点が網羅されており、党綱領の解説書とも言える論文で、今後の闘争の指標になる論文だと今でも思っている。
これに対して新日和見主義「事件」は共産党の文献は多数あるが、被処分者の文献はない。被処分者は前述の党員の義務を果たしたのである。 被処分者の側から反論文書が公表されることはなかった。
決定に対する無条件実行には、決定や方針そのものの結果に対する検証が不可欠だ。二十数万の民青がその十分の一以下の二万に激減した結果だけでもこの処分の誤りは明らかだ。
党中央は、党員の義務を強調する。しかし、規約の党員の権利に関してはほとんどそれに応えていない。その例として、もう一つ汚名から引用してみたいと思う。
党内討論の実情
不破委員長は日本記者クラブで次のように語った。
「私たちは大会の機会に、そういう少数意見をふくめ、党員個人の意見を党中央に寄せてもらって、それを何冊もの雑誌(赤旗評論特集版)に掲載して公開して、反論する意見をもつ人はその雑誌に自分の意見をのべるということをずっとやってきています。(中略)そういう点では、われわれは少数意見、異論の存在にたいしてもいちばんきちんとした対応をしているつもりです。」
本当にそうなのか。そこで、私の体験にふれて記してみたい。私は1994年の第二十回党大会に意見書を提出した。内容は簡記すると以下のようなものだった。
①訴願委員会を党規約改定案に明記したことに賛意表明。その運営の民主的拡充など三点に言及。②離党者にたいするあと追い処分の問題。
③党規約改定案が公開討論を明記したことを歓迎。党内紙誌の場合、一定期間公開討論を認めることを提案
ところが、大会議案処理事務局から「赤旗評論特集版」に私の意見書を掲載できない、と電話でいってきた。
「どのような理由で掲載できないのですか」
「あなたの意見は、党内問題だから公表するわけにはいきません」
「冗談ではありません。党内問題を議論するのが党大会ではないのですか」
「冗談?あなた、そのいい方は誹謗・中傷ですね」
「どこが誹謗・中傷なんですか。そう簡単にいわないでください。「赤旗評論特集版」には党内問題が議論されていますよ」
「とにかく党内問題を公開しないのが党の原則です」
「機関紙問題や党内問題がでているし、なにより赤旗の「学習・党活動版」にはしょっちゅう党内問題がでているではないですか」
「党内問題は、外部にもちださないことが党規約で定められています。だから掲載できません」
「「特集版」は党内誌ですよ。あなたのいっていることは、党外の雑誌に発表する場合のことではないんですか。見解の相違ですね。とても納得できる議論ではありません」
「見解の相違ねえ」
「私の意見のどこが公開できないというのですか」
「党中央へ手紙をだしたとか・・・・・」
「そのほかどこですか。私は具体的事実と体験にもとづいて意見を述べているのです。事実と体験があったので、意見を述べることができたのです」
「提出された意見を公表しないような措置をとるから、閉鎖的で党のイメージが暗くなるんじゃないですか」
「ウッフッフ。暗くねえ」
「そういう理由で私の意見書を公開しないとは思いませんでした。意見の抑圧になりませんか」
「あなた、それは誹謗・中傷ですね」
「それでは党中央のいう、党内問題と思われる部分を除いてあらためて意見書を提出します」
「それもダメです。提出期限は七月三日で切れています。あなたはなぜ遅くだしたんですか。あなたの意見書が届いたのは最終日です」
「その見解はおかしいですね。公募期間中であれば、初日にだそうと、中日であろうと、最終日であろうと、かまわないはずです。提出日で差別すべきではないと思います。期限内に提出したものであれば、補正を認めるのがふつうだと思います」
「とにかく期限をすぎているのでもうダメです」
「とても納得できません。私の意見書は三つにわかれています。二項目と三項はあなたのいう、党内問題にふれてないと思います。ですから一項を除いた部分を掲載してください」
「それもダメです」
「それもダメとは、いくらなんでもひどいではないですか。無茶苦茶ですよ」
「無茶苦茶?それは誹謗、中傷ですね」
「あなた、誹謗、中傷などと、そう軽々にいうものではありません。私は事実にもとづいて自分の意見を述べているのです。意見拒否になりますよ」
「とにかく、あなたの要求には応じられません」
「掲載しないことを通告するため電話してきたんでしょうから、これ以上いってもしょうがないかもしれません。しかし党中央には伝えてください。掲載できるように再検討してくださいと。それから、党内問題にふれるといわれる部分を書き直しても提出が認められないということや意見書中の二項、三項の掲載も認められないというのは納得できません。このことも伝えてください」
略
事務局員の電話で驚いたことは、言葉尻をとらえてくり返し誹謗・中傷を口にしたことだった。規約改定案は、「討論は、文書であれ口頭であれ、事実と道理にもとづくべきであり、誹謗・中傷に類するものは党内討議に無縁である」という文言を新たに加えた。これをみたとき、私は批判抑制の口実にされるのではないかと考えたが、こうまで早く威力を発揮しようとは思わなかった。しかし「赤旗評論特集版」には「悪罵、誹謗、中傷」の語源や解釈論を展開し、中傷を除けば、それらを批判と区別することはむずかしく、たやすく異論排除にいきつく可能性があることを指摘した鋭い意見があった。誹謗中傷の判断権は党中央が握っている。大会議案処理事務局員の電話は明らかに議論の抑制であった。(汚名 油井喜夫)
この、誹謗・中傷なるものを口実にますます党内の議論は抑制されるようになったのは確かだ。
そもそも共産党が「党を破壊する最悪の行為」と規定する分派禁止や民主集中制は、共産主義運動において最初からあった不可欠な組織原則なのだろうか。
分派禁止は1921年3月16日、レーニンが緊急動議の形で提出した「党の統一について」の決議の第7項「フラクション禁止」規定に由来する。しかしレーニンはこの第7項を大会以外へは公表を禁じ「秘密条項」とするよう提起した。
この第7項の内容は「党内に、また、ソウ゛ィエトの全活動の内に厳格な規律を打ち立てるため、また、あらゆる分派結成を排除して、最も大きな統一を成し遂げるために、大会は、規律違反とか、分派の発生の黙認とかの場合には、党からの除名を含むあらゆる党処罰の処置をとり、また中央委員については、中央委員候補に格下げするとか、非常処置としては、党から除名する全権を中央委員会に与える」とするものだった。
つまり、「党大会で選出され、従って大会でしか、格下げ、除名できない中央委員に対する処分権を中央委員会に与える」という規定だった。
スターリンはレーニン死後、この「秘密条項」を解禁し、それによって、この規定は、「公然とした恒常規定」となり、政敵排除に活用され、さらに中央委員会に全権委譲され、果てはスターリン支配下の書記局に全権が集中されていった。
民主集中制も共産主義運動の不可欠な原則ではない。
ロシア党大会を前にして「イスクラ」が繰り広げたカンパニアにおいて、それの卓越した指導者である同志レーニンの著作がわれわれの手元にあるが、その著作は、ロシアの党の超・中央集権的な方向を組織的に表現している。ここに強烈に、徹底して表現されている見解は仮借ない中央集権主義のそれであり、それの根本原理は、一面では、はっきりした活動的な革命家たちを、かれらをとりまく、未組織であっても革命的・積極的な環境から、組織された軍団として抽出・分離する事であり、他面では、党の地方組織のあらゆる発現形態を中央機関の厳格な規律と、それの直接的な、断固として決定的な関与を、持ち込むことである。略。つまり、この見解に従えば中央委員会は、党のあらゆる部分委員会を組織し、(略)ロシアの個々の地方組織の全ての人的構成をも決定し、お手盛りの地方党則をそれらにあたえ、上からの命令でそれらの組織を解散させあるいは作り出し、ついには、こうしたやり方で、最高の党判定機関・党大会の組成をも間接に左右する、という権能を持つ。その結果、中央委員会が党の根源的な活動の核となり、残余の組織は全て単に、それの実行の道具として現象する。
ローザ・ルクセンブルグ ロシア社会民主党の組織問題)
民主集中制と分派禁止はマルクスではなく、レーニンとボルシャビキを起源とし、コミンテルン型の共産党で受け継がれていったものにすぎない。
いかなる時にも、社会民主党にとって重要なのは、将来の戦術のために出来合いの目論見を、予め考え、立てることではなく、当該の支配的闘争諸形態に対する正しい歴史的評価を党内で生き生きと保ち、プロレタリア大衆闘争の終局目標の見地から、闘争の所与の局面の相対性ならびに革命的諸モメントの必然的昂揚に対する生きた感覚を持つことである。
しかし、レーニンが行なうように、否定的性格を持つ絶対的な機能を党指導に付与するならば、それは、その本質からして、必然的に発生する、あらゆる党指導の保守主義を、まったく人為的な仕方で危険な程強めることになろう。社会民主主義的戦術が、一中央委員会によってではなく、全党によって、より正しくは、全運動によって創造されるのであるとすれば、党の個々の組織には、明らかに、行動の自由が必要なのであり、その自由のみが、当面する状況によって提示されあらゆる手段を闘争の昂揚のために徹底的に駆使し、また、革命的イニシアチブの展開を可能にするのである。
しかし、レーニンによって推奨された超・中央集権主義は、その全本質において、積極的創造的な精神ではなく、硬直した夜警根性によって支えられている、とわれわれには思われる。かれの思考の過程は、党活動の結実ではなくて主としてその統制に、その展開ではなく制限に、運動の結集ではなくその締め上げに向けられている。
略
現実に革命的な労働者運動が現実の中で行なう誤りは、歴史的には、最上の「中央委員会」の完全無欠に比べて、計り知れぬほど実り豊かで、価値が多い、と。(ロシア社会民主党の組織問題)
民主集中制の問題は再度取り上げてみたいと思う。以前の科学的社会主義欄の投稿や今回の投稿と重複する引用をすることになると思うが、現在の党中央が批判拒絶体質やセクト主義陥っている中でこの問題は避けて通れない問題と思う。