北朝鮮の核実験問題で共産党はさかんに「対話」の重要 性を述べているが、「対話」とは国家機関による外交戦術以上 のものではない。異種の共同体を代表する国家機関の発話が常 に自国の国益というものに発していることは自明のことであろ う。しかし、戦争とはまさに国益と国益との対立から生じる国 家間紛争なのである。よって、「対話」で解決できるとすれば 、(1)複数の国の国益が戦争以外の道で調和可能であること を示すことか、さもなくば(2)戦争に移行した場合に相手の 国益がどれほど損なわれるかを示すか(武力による威嚇)のい ずれかである。(2)は平和憲法を遵守する立場である限り採 用できない。したがって共産党が採るべき「対話」の道は(1 )であろう。
具体的には、北朝鮮国家の国益とそれに対立するアメリカや 日本等の国益がいかなる点において調和可能なのか、それらの 国益が利害を一致させ得る新しい国家間秩序を詳細に示すこと である。それを提示すること無く「対話の重要性」を叫んでい るだけでは、ただ単に「対話の椅子に着席すれば何とかなる」 と言っているに等しい。更には、戦争に至った場合に自分たち の手だけを綺麗な平和色にしておくための責任逃れと見られて も仕方が無い。それとも、平和主義を装いながら(2)の効果 を念頭において北朝鮮を封じる腹づもりでいるのであろうか?
いずれにせよ国益調整を本質とする外交交渉=「対話」を呼 号するだけでは戦争回避は国益を体現する権力者の手に委ねら れる他ない。平和を支える力が「国家の武力」でないとすれば 、「国家の対話」こそが平和の礎なのか? そのリアリティの 無さこそが「平和主義」の内実として嘲笑されているのではな いのか?
「内部問題不干渉」の美名のもと北朝鮮民衆との接触を断っ てきた日本共産党、国内にあっては党活動を党勢拡大と選挙運 動=宮廷政治運動に解消して大衆運動を軽んじて来た日本共産 党。一触即発の国家間紛争を前にして本来依拠すべき内外民衆 の力を失い、何の見通しも無く国家の論理に埋没しているよう に見える。より正確に言えば、自らの不作為によって民衆を国 家主義の方向に追いやり、その民衆からの批判を恐れて場あた り的な媚びを売っているのではないか。共産党は今回の一連の 制裁措置に賛同した。次のステージである「武力による威嚇」 との差異は、兵糧攻めと直接矢を射る戦闘との違い程度でしか ない。