何だろうかと、この頃頻りに思います。さざ波を見ても…。
日本と世界の民衆の生活の根本的な向上と、民主主義のいっそうの発展とをめざす立場から、どんなことでも、自由闊達に、節度を持って、誠実に議論できることは、本当に大切。
ただ、私はこの頃いつも感じるのですが、やれることが本当に限られている。無念だが仕方がない。焦ってもしょうがない。自分の気持に素直であることは、人間として大切なことだと思います。しかし、その気持が現実に対して持つ意味を見直してみることも同じかそれ以上に大事。
旧社会党系の「社公合意」等によるブレーキは、「公明党を革新の側につなぎ止める」という当初の大義名分が、小泉自公政権の下でどんなに無惨な形をさらけ出したかを見るだけで、明白です。
しかし、第一に、それを批判する側に、セクト的な誤りはなかったのか。第二に、「互いに臑に傷を持つことを認めながら、建設的な批判の応酬をする」という「正しい」名分の下で、いちばん肝腎な、日本ファシズムの再来を阻止する課題との関係が見失われてはいないか。
私は、ちょっとした行きがかりから社民党系(たぶん社会主義協会系)の人たちと交流する機会を持つことができ、その人たちの良心的な、長年に亘る活動を知るにつけ、そして最近のこの人たちの苦悩を知るにつけ、「お前らはあのとき、いったい何をしていたんだ!」と声を荒げることなどできない。それは、傷の嘗め合いではありません。基本的な方向性と善意が確認できる以上、あれこれの問題はそれとして認識しつつ留保して(それはお互いさま)、いま本当に力を注がなければならない課題に、力を合わせようということではないでしょうか。
さらに、原仙作さんがおそらくいつも念頭に置かれているように、政治のダイナミズムと力学的諸条件を最大限に活用して、「絶対に活路のない情勢はない」という信念を、現実政治に適用することではないでしょうか。支配勢力は、国連事務総長選出問題でのポカ等、稚拙ではあってもそれを行っている。われわれがやらない理由などないと思うのです。
もしも、「正しさの説得力」というものがあるとしたら、現在の情勢下では、日本ファシズムの再来を阻止する客観的意義を持つ共同に向けた努力を通じてのみ、証明されるのではないか、と思うこの頃です。
最近、苅部直『丸山眞男-リベラリストの肖像』(岩波新書新赤版1012 2006年5月19日第1刷刊)を読みました。原仙作さんが「~を指摘したのは丸山眞男だけだ」とどこかでいっておられたのが、妙に心に引っかかっていたからです。それまで私は、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫版末尾の文章でしか、丸山眞男を知りませんでした。
確か1980年代に、当時の宮本議長(委員長?)が非常に唐突に丸山批判の論文を発表したことに、解せない違和感を懐いてはおりましたが、『現代政治の思想と行動~増補版』は、ある講座の指定文献になっていたにも拘らず、何10年も「積ん読」状態のままでした。
新書の終章末尾で、苅部教授が庄司薫を引用していたのには、思わず微笑んでしまいましたが、その212~213ページには次のようにあります。
(林達夫『共産主義的人間』中公文庫版末尾庄司薫解説の引用)
> 価値の多元化相対化と同時進行する情報洪水のまっただ中で、ぼくたちは今その自己形成の前提となる情報の選択の段階ですでに混乱してしまおうとしている。ここで唯一の有効な方法とは、結局のところ最も素朴な、信頼できる「人間」を選ぶということ、ほんとうに信じられる知性を見つけ、そしてその「英知」と「方法」を学びとるということ、なのではあるまいか(「解説-特に若い読者のために」、一九七三年)。
これに続く苅部教授自身の言葉も、庄司薫氏の結論を支持するものでした。
> 社会の「大問題」についての報道や論評が乱れ飛ぶこの世界では、信頼できる「人間」を選ぶ、とは、あまりにもちっぽけで、迂遠なやり方に見える。しかし、ほんとうにそれしか残っていないのかもしれない。あるいは、それこそがまさに乏しくなっているのが現状なのである。(中略)思想家としての丸山の格闘が、それに触れる者に呼びおこすのは、この可能性にむけた、ひとすじの希望にほかならない。