連合さん言っているのは多分丸山眞男氏の指摘に基づいているものだと思います のでその部分を引用してみます。
第二に、具体的な政治力学はつねに「体制」勢力と「反体制」勢力との対抗関係―その いずれが国民をつかむか、によって変動すること。したがって「体制的」勢力が国を戦 争に引き込んで行く可能性は逆にいえば、反体制指導者とアクティブがどこまで有効 に抵抗を組織するかにかかっている。
この二点に注意しながら、我が国の戦争責任とくに政治的な責任問題の考え方をふ りかえってみるとき、そこに二つの大きな省略があったことに思い至る筈である。一 つは天皇の戦争責任であり、他は共産党のそれである。この日本政治の両極はそれぞ れ全くちがった理由によって、大多数の国民的通念として戦争責任から除外されて来 た。
しかし、今日あらためて戦争責任の問題を発展的に提起するためには、どうしても この二者を「先験的に」除外するドグマを斥けねばならぬ。天皇はいうまでもなく「体 制」最後の拠点であり、共産党はまた、反体制のシンボルである。
両者の全くちがった意味での責任をとりあげることは、この両極の間に色々のニュ アンスを以って介在する階層やグループの戦争責任を確定し、その位置づけを明らか にする上にも大事なことのように思われる。ここではごく簡単に問題の所在だけを示 して見よう。
天皇を責任については戦争直後にはかなり内外で論議の的となり、極東軍事裁判の ウェッブ裁判長も、天皇が訴追の対象から除かれたのは、法律的根拠からではなく、 もっぱら「政治的」な考慮に基づくことを言明したほどである。
しかし少くも国内からの責任追及の声は左翼方面から激しく提起された以外は甚だ 微弱で、わずかに一、二の学者が天皇の同義的責任を論じて退位を主張したのが世人 の目を惹いた程度である。
実のところ日本政治秩序の最頂点に位する人物の責任問題を自由主義者やカント流 の人格主義者をもって自ら許す人々までが極力論議を回避しようとし、或は最初から 感情的に弁護する態度に出たことほど、日本の知性の致命的な危さを暴露したものは なかった。
大日本帝国における天皇の地位についての面倒な法理はともかくとして、主権者と して「統治権を総攬」し、国務大臣を自由に任免する権限をもち、統帥権はじめ諸々の 大権を直接掌握していた天皇が―現に終戦の決定を自ら下し、幾百万の軍隊の武装解 除を殆ど摩擦なく遂行させるほどの強大な権威を国民の間に持ち続けた天皇が、あの 十数年の政治過程とそのもたらした結果に対して無責任であるなどということは、お よそ政治倫理上の常識が許さない。
事実上ロボットであったことが免責事由になるのなら、メクラ判を押す大臣の責任 も疑問になろう。しかも、この最も重要な期間において天皇は必ずしもロボットでな かったことはすでに資料的にも明らかになっている。にも係らず天皇についてせいぜ い道徳的責任論が出た程度で、正面から元首としての責任があまり問題にされなかっ たのは、国際政治的原因は別として、国民の間に天皇がそれ自体何か非政治的もしく は超政治的存在のごとくに表象されて来たことと関連がある。
自らの地位を非政治的に粉飾することによって最大の政治的機能を果たすところに 日本官僚制の伝統的機密があるとすれば、この秘密を集約的に表現しているのが官僚 制の最頂点としての天皇にほかならぬ。
したがってさきに注意した第一の点に従って天皇個人の政治的責任を確定し追及し 続けることは今日依然として民主化の最大の癌をなす官僚制支配様式の精神的基礎を 覆す上にも緊要な課題であり、それは天皇制自体の問題とは独立に提起されるべき事 柄である。(具体的にいえば天皇の責任のとり方は退位以外にはない。)
天皇のウヤムヤな居据りこそ戦後の「道義退廃」の第一号であり、やがて日本帝国の 神々の恥知らずな復活の先触れをなしたことをわれわれはもっと真剣に考えてみる必 要がある。
共産党―ヨリ正確には非転向コンミュニストが戦争責任の問題について最もやまし くない立場にあることは周知のとおりである。彼等があらゆる弾圧と迫害に堪えてファ シズムと戦争に抗して来た勇気と節操とを疑うものはなかろう。その意味で鶴見俊輔 氏が非共産主義者にとって戦争責任をとる、具体的な仕方として、あらゆる領域で共 産党を含めた合議の場を造る必要を説いているのは正論と思う。
しかしここで敢えてとり上げようとするのは個人の道徳的責任ではなくて前衛政党 としての、あるいはその指導者としての政治的責任の問題である。
ところが不思議なことに、ほかならぬコンミュニスト自身の発想においてもこの両 者の区別がしばしば混乱し、明白に政治的指導の次元で追及されるべき問題がいつの 間にか共産党員の「奮戦力闘ぶり」に解消されてしまうことが少なくない。
つまり当面の問いは、共産党はそもそもファシズムとの戦いに勝ったのか負けたの かということなのだ。政治的責任は峻厳な結果責任であり、しかもファシズムと帝国 主義に関して共産党の立場は一般の大衆とちがって単なる被害者でもなかればいわん や傍観者でもなく、まさに最も能動的な政治的敵手である。
この闘いに敗れたことと日本の戦争突入とはまさか無関係ではあるまい。敗軍の将 はたとえ彼自身いかに最後まで踏みとどまったとしても依然として敗軍の将であり、 敵の砲撃の予想外の熾烈さやその手口の残忍さや味方の陣営の裏切りをもって指揮官 としての責任をのがれることはできない。戦略と戦術はまさにそうした一切の要素の 見透しの上に立てられる筈のものだからである。
もしそれを過酷な要求だというならば、はじめから前衛党の看板など揚げぬ方がい い。そんなことはとっくに分かっているというなら、「シンデモラッパヲハナシマセ ンデシタ」式に抵抗を自賛する前に、国民に対しては日本政治の指導権をファシズム に明け渡した点につき、隣邦諸国に対しては侵略戦争の防止に失敗した点につき、そ れぞれ党としての責任を認め、有効な反ファシズムおよび反帝闘争を組織しなかった 理由に大胆率直な科学的検討を加えてその結果を公表するのが至当である。
共産党が独自の立場から戦争責任を認めることは、社会民主主義者や自由主義者の 共産党に対するコンプレックスを解き、統一戦線の基礎を固める上に少なからず貢献 するであろう。
(思想の言葉、「思想」昭和三十一年三月号 丸山眞男)
戦前の力関係の中で、ここまで共産党に責任あったかは疑問だが、一面を現してい るのは確かだろう。現在の党のセクト的対応を見ている政府の戦争政策や憲法改正の 動きに有効な戦略戦術を駆使しているとは、到底思えない。今後、政府の改憲策動に 有効に対応できず、ファシズムに主導権を明け渡したり、侵略戦争が行われた場合、 共産党は敗軍の将の責任を免れることはできない。憲法改正反対で統一すれば、十分 阻止できる可能性はあるのだから。