たぬたぬさん、こんにちは。
福田勧一氏の「近代民主主義とその展望」をお読みになったようですね。
その知的誠実さには敬意を表します。
なお、はじめに断っておきますが、私は日本共産党および旧社会党・社民党いずれの党員でもありませんし、いわゆる「シンパ」でもあり ません。私の政治的スタンスは私のブログをご覧頂ければ凡そは把握できるでしょうから、紹介させていただきます。
さて、本題に入ります。
たぬたぬさんはご自身の理解は「一般的」であり、私が紹介した福田氏の議論は「特殊」では無いかと言っておられます。が、私はあな たが言うところの「一般的な用法」をこそ疑うべきではないかと思うのです。
>一般的な用法を用いて使った私に対し、特殊な使い方をしている(しかも特殊な使い方ということを著者も自覚している)本をもってして「もう少し勉強しろ」と言うのはどういう意味でしょうか?
まことさんは「近代民主主義とその展望」を本当に読んだのでしょうか?
政治学や政治思想史の見地からみれば、むしろ福田氏のような民主主義の捉え方の方が正統でしょう。福田氏の議論は単なる思い込みでは無く、政治的古典や歴史的事実によって裏付けられているものですからね。
あの本で示されているように、民主主義というのは時代によっても国や地域の違いによっても、またイデオロギーの違いによっても極めて多義的な差異があるわけです。しかしながら、たぬたぬさんの投稿も含め、多くの場合は「民主主義」と言えば現代の日本や欧米の政治体制を指すものとして用いられている。
福田氏の言うところの「普通に使われる場合」とはそうした俗流の民主主義理解を意味しているのであって、その一方で福田氏は政治学や政治思想史の見地から、そうした「普通」の理解は必ずしも学術の世界における「民主主義」の概念とは一致しないと主張していると理解すべきです。
次に。
>しかし、ロベスピエールによる独裁恐怖政治も民主主義で朴正煕軍事独裁も民主主義、ソビエトの一党独裁制も民主主義というのは諸手を挙げて賛成できるような内容ではありません。
ではお聞きしますが、福田氏はジェコバン派の独裁を「民主主義」だとして称揚していましたか?仮にたぬたぬさんが福田氏の文意をかように理解したのだとしたら、それは端的に誤読でしょう。
福田氏も説いておられるように、近代の民主主義とは本来<政治の参加主体(近代民主主義では「人民」と規定し得るでしょう)みなが対等の立場で政治を運営することを目指す思想・運動>であったわけです。しかしながら、たぬたぬさんが論じられるように、時として「民主主義」の名の下で「独裁」や「専制」を産み出すこともある。それはある意味「民主主義の逆説」とも言いえる状況ではあるのですが、それもまた歴史的現実であるという面にこそ、たぬたぬさんは目を向けるべきだと私は考えます。
例えば、ヒトラーはユダヤ人大虐殺などの蛮行を行った独裁者として歴史に名を残していますが、果たして彼は当時のドイツ民衆からの支持を得てはいなかったのでしょうか?
確かにナチスが政権を獲得する過程では謀略を用いるなどして対抗勢力を追いやったのは事実です。しかしながら、彼らがワイマール憲法という当時としては民主的な憲法体制の下、当時のドイツ民衆から圧倒的な「喝采」を受けて政権に就いたのもまた事実です。そのナチスが齎した歴史的結末はご存知の通りです。
このように、大衆民主主義の下では、得てして「大衆」の支持の下で専制的・独裁的な政治を招いてしまうことがあるという「逆説」は、例えばJ.S.ミルやオルデガ・イ・ガセットやハンナ・アーレントなども指摘しているところです。
こうした「民主主義の逆説」とでも言うべき状況を単に「あれは民主主義では無いのだ」と捉えるのでは無く、むしろ私達はそうした民主主義の「負」の側面にも真摯に向き合った上で、より民主主義の内実を豊かにさせていく必要があるのでは無いでしょうか。
たぬたぬさんは以前、「民主主義は理想の政治像では無い」と書かれました。
それはその通りですし、福田氏もそう論じているわけですが、「民主主義の逆説」に直視しない姿勢もまた民主主義を「理想の政治像」として捉える議論と表裏を成すものでは無いでしょうか。
次に。
>しかも、まこと氏は私の投稿もろくに読んでいない気がしま すが。もし読んでいたら
>>氏の所論を突詰めると、少数野党である日本共産党が国会で議席を有していることには何らの政治的意義も無いことになるかと思いますが、いかがでしょう。
こんな発言がでてくるはずも無いですから。
あなたは人権擁護法案での共産党の姿勢を引き合いに出しつつ、法案が本当に悪そのもので、その悪い点を正しく指摘できれば与党は動かせる」とも書き、審議拒否や牛歩戦術といった野党の戦術を批判されました。
しかしながら、果たして「悪い点を正しく指摘できれば与党は動かせる」「自党の言論に自信があるのなら、そしてその法案が悪法なら、審議が進めば法案の欠陥がどんどん明らかになり、勝つに決まっていると考えるのが普通」なのでしょうか?
例えば1999年の「盗聴法(通信傍受法)」の審議の際には、日本共産党も民主党や社民党とともに牛歩戦術に参加しました。あの時、野党は政府・与党の議論の矛盾を指摘しつつ、十分な審議時間を取ろうとしない与党の態度を批判しました。
が、当時の与党側は一方的に委員会審議を打ち切り、委員会採決に持ち込みました。
そして、日本共産党を含む野党側は已む無く参議院で「牛歩」という戦術に訴えました。
たぬたぬさんは民主主義を
「1.あらかじめ決められている決まりに必ず従う
2.決定は選挙による多数決で行う
3.多数決で決まったことには必ず従う」
と定義されました。(たぬたぬ氏「民主主義とは何か(PINKOさ んへ)」より)。
なるほど、盗聴法は「選挙」によって選出された「多数派」(自民党・公明党・旧自由党)による「多数決」によって決せられ、件の法案は「 あらかじめ決められている決まり」によって合法的に審議・可決されたものとして、成立しました(少なくとも当時の「多数派」はそう看做しているし、件の法律は現に「合法的」に存在している)。
しかし、法案の成立過程に理不尽があるならば、その非を指弾していくことも「民主主義」においては重要なのではないでしょうか。無論、その手法として審議拒否や牛歩という戦術が妥当か否かは十分に検討されるべきではありますが。
ただ、たぬたぬさんが褒めておられる米国の連邦議会では「フィリーバスター(filibuster)」と呼ばれる議事妨害が、時として少数派による
合法的な議会戦術として認められているという事実には着目すべきでしょうね。
これは議会内多数派が少数派に不利な議会運営を展開している場合には、わざと長時間の演説を続けたり(米国の連邦議会の本会議では演説の時間制限が無い)、緊急動議を出し続けるなど、採決を妨害するという戦術です。
つまり、たぬたぬさんが褒める米国の議会ですらも、「多数には必ず従う」などという単純な論理では運営はされておらず、多数派の不当には実力行使を以って抵抗することも少数派の正当な反撃手法であるとされているわけです。
先ほど私は「民主主義の逆説」ということを述べましたが、単に「多数決」や「決まり」を聖化することは「民主主義」を空洞化することになるのだと考えます。政策の決定プロセスにおいて少数派や主権者たる民衆(憲法上の用語では「国民」-people)の声が十分に反映されているか否かこそが重要なのではないかと考えます。
私がたぬたぬさんに福田歓一氏の「近代民主主義とその展望」を推薦してたのも、この投稿で論じたような視点をあなたに知って欲しかったからです。ちなみに、私が件の著書をまともに読んでいないのではないかと書かれていました。が、私は先日の投稿を行った後、同書を本棚から取り出して改めて読み直したことを追記しておきたく思います。
(以上)