共産党は誹謗中傷を良く問題視するが、丸山批判におけ
る共産党の対応は、誹謗中傷どころか、こじつけ、歪曲としか
表現のしようがない。
まず、宮本顕冶氏の赤旗(1994年1月1日)の新春インタビュー
の丸山批判部分を引用してみる。
まずいえるのは、丸山眞男氏の日本共産党にも戦争責任があ るという、近代政治学の立場からの日本共産党否定論に対する 批判、反論です。略
そういうなかで、昨年、初めて丸山眞男氏にたいする全面的 、本格的な批判が「赤旗」評論特集版(1993年5月31日号)で展 開されました。さらに、「前衛」(1993年12月号、「丸山眞男 氏の「戦争責任」論の論理とその陥穽」)で批判しました。若 い人が一生懸命論文を書いて、しかもただ丸山氏の「共産党戦 犯」論の批判だけでなく、彼の学説の背景、彼に影響をあたえ たドイツの学者の学説はどういうものかを調べて、丸山氏がド イツでさえいえなかったようなゆがめた共産党批判を行なって いるということまでをちゃんと書いています。堂々たるもので す。
「赤旗」評論特集版の長久理嗣論文―「社会進歩への不同意 と不確信、「葦牙」誌上での久野収氏の議論について」も集団 的労作ですが、「共産党の戦争責任」をうんぬんした丸山眞男 氏の議論をはじめて本格的に批判したものです。丸山氏の議論 というのは、要するに、日本共産党は侵略戦争をふせぐだけの 大きな政治勢力にならなかったのだから負けたのだ、したがっ て、侵略戦争をふせげなかった責任がある、"負けた軍隊"がな にをいうか、情勢認識その他まちがっていたから負けたんだ、 そういう立場なんです。これにたいして長久論文は、世界の歴 史の決着はこの問題でどうついたかをはっきりさせました。
日本共産党の存在意義そのものにかかわることですが、戦後 の憲法論争や世界史の結論からみれば、日本共産党の立場こそ 先駆的だったのです。
けっして日本共産党は負けたのではありません。歴史をつう じて、第二次世界大戦の結末をつうじてあきらかになったこと は、日本共産党が先駆的な展望をしめしていたということです 。しかも実際の勝ち負けという点から見ても、日本共産党はい わば大きく日本国民を救ったといえる、日本歴史の新しい主権 在民の方向と展望を示す、そういう基礎をつくったんだという ことを書いたのです。
まず考えなければならないことは、丸山氏が共産党の戦争責 任論を書いた動機の一つが1952年のメーデー事件にあったこと である。
1952年講和「独立」後はじめてのメーデーでは、それまで「 人民広場」の名で親しまれていた皇居前広場にデモ隊が発砲し 、二人を射殺し多くの重軽症者を生んだ。「血のメーデー」と もいわれる所以である。先生が触れられていたのは、当時メー デーに参加した東大法学部職員組合の女性職員が逮捕されたこ とに関連している。
逮捕された二人の女性職員は、研究室の事務を担当していた 人たちで、誰がみても騒擾罪にかかわるような闘士ではない。 丸山先生は、この経緯を詳しく述べられた後に、多くの死傷者 を出し、無関係な組合員の中に逮捕者を出すというような結果 に対して、当時の共産党指導部が責任意識を持っていたかを問 題にされた。略
このように考えてくると、先生の記憶がとりわけ鮮明である ということは、この事件が起った当時から、結果責任に対する 意識の欠如という点で、この時期の共産党の指導と戦争責任の 問題を結びつけて考えておられたことを示すものと思われる。( 「「戦争責任論の盲点」の一背景 石田雄)
丸山氏の戦争責任は、11月1日のkeiさん宛ての投稿で書いて
いるように、前衛党の政治責任としての戦争責任であり、最も
能動的な敵手の指揮官としての責任、つまり、結果責任を論じ
たものである。
これを「共産党戦犯論」や「共産党否定論」として批判する
のは、こじつけ、歪曲としか表現しようがない。問題点のすり
替えである。
一般的に非支配階級の闘いは、革命が成功するまで、敗北の
連続となる。しかし、そこに至るまでの闘いの中で結果に対す
る検証を常におこない教訓を導きださないならば、運動の発展
はありえない。
丸山氏の「政治的責任は峻厳な結果責任」という指摘を避け
ている限り、間違えた決定や方針を改善することはできない。
次回は、この問題で、第20回党大会および戦後革命論争史(
上田耕一郎著)を取り上げたいと思います。