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一般投稿欄

「民主主義」を抱きしめて・・・(たぬたぬさんへ)

2006/11/20 まこと 労働者

たぬたぬさん、こんにちは。

 まず、福田歓一氏の「民主主義」の定義が特殊なのではない かという点について。

>少なくても、1977 年当時では福田氏のような用語の用い方 は極めてまれであったことは福田氏自身が言っていることです 。(くどいようですが、福田氏が間違っていると言っているの ではありません。あくまで、「特殊な用語の使い方をしている 」ということです。)<(たぬたぬさん)

 しかしながら、福田氏が「あとがき」で次のように書いてい る点にこそ留意すべきでしょうね。

「したがって本論の中で述べたことは、すべて陳腐で常識的な 内容を出ていないはずである。私としてはむしろ意図的にその ように努め、それを狙ったつもりである。」
「何よりも(民主主義の)イメイジのちがいが明らかになるため にも、また個性的・独創的なイメイジが提示されるためにも、 陳腐で常識的な最小限度のたたき台が役に立つかも知れない。 それが本書をまとめた意図なのである。」
「内容において通説に頼ったところ、同学(政治学)の方々の研 究に負うところが当然きわめて多い。」
(以上、福田歓一著「近代民主主義とその展望」(岩波新書)209 ~210頁より。なお、引用文中の括弧内字句は引用者による追 記。)

 たぬたぬさんは「近代民主主義とその展望」という本が一般 人向けに「民主主義」とは何かを概説するために書かれ、氏の 言うところの「特殊」云々という文意には、<政治学や政治思 想に疎い人から見れば学者の議論は「特殊」に思えるかもしれ ない>という文意が込められているという点を読み取っていな いのではないかと思います。

 次に。

>しかし、福田氏はソビエトのボリシェビキ一党独裁は民主主 義と称揚していますよね。<(たぬたぬさん)

 たぬたぬさんはまた誤読・曲解をしているようです。福田氏 はボルシェビキズムやソ連の政治体制について次のように纏め ています。少し長いですが、正確さを期すために引用します。

「(1936年のスターリン憲法は)人民の名において制定されて、 普通選挙による二院制度の議会を持つとともに、広く、かつ手 厚い人権の保障を規定しております。しかし、この憲法が制定 された時期は、歴史的に見ますと、政治的な粛正が絶頂に達し 、人権が最も無残に無視されていた時期でございますから、こ の憲法は、公然たる偽善と言わざるを得ない。ここでは、憲法 の規定いかんにかかわらず、政治参加の実質を決定するのは、 まったく憲法に規定のない共産党そのものであり、この党の党 員は人口の五%を占めているだけでありますが、前衛党の伝統 にしたがって一切民衆のコントロールを受けない。民衆からま ったく独立し、しかも一方では、党の最高指導部の監督に服し て、下からの統制は、党内でもまた行われない体制ができてい たのであります。」
「(中略)こういう組織の上につくられた強大な革命権力は、平 等の実現と人間の解放を目標として掲げましたから、一方では 、労働者の保護、手厚い社会保障を築いた。それにもかかわら ず、政治的に申しますと、ついに民主主義を回復せず、専制に 陥ったと言わざるを得ない。
 なにがいったいこういう転落を導いたのでしょうか。もとも とマルクスの理論の中では、共産主義世界というユートピアの 実現は、古い生産関係を廃棄して、それによって無限の生産力 を解放するという、経済体制の変革に求められていたわけであ ります。ところが、ロシアは革命当時においても圧倒的に農業 国である。工業国という点ではまったく遅れた国でありました から、革命権力は、干渉戦争の経験のもとで、自己を守るため に急速に工業化を強行するほかなかった。これを強行する手段 として、権力は自己を組織化し、しかも工業化が高度になれば なるほど、その生産組織は官僚化して、軍隊組織に似たヒエラ ルキーをつくってしまった。言うまでもなく、こういうものは 、平等主義を根本から空洞化していかざるを得ないのでありま す。」
「(中略)フルシチョフ時代、そして現在のブレジネフ時代を通 じて、一党独裁と官僚制支配は依然として重くのしかかったま まであり、とくにイデオロギーにおいては再び厳しい統制を強 化しているくらいであります。ここでは政治権力は、単に権力 という意味での権力であるだけでなしに、思想における独占権 も主張する。この体制がまったく変わらないのであります。」
「(中略)("人間の顔を持った社会主義"という希望が)かかって いますのは、物理的にソ連の手の及ばない西ヨーロッパ諸国の 共産党の新しい路線、いわゆるユーロ・コミュニズムであり、 その東側への思想的影響である、というのがやはり否定できな い現実であろうと思います。」
(以上、福田前掲書104~108頁より。なお、引用文中の括弧内 字句は引用者による追記。)

 果たして、福田氏は「ソビエトのボリシェビキ一党独裁は民 主主義と称揚して」いるのでしょうか。たぬたぬさん、他人の 議論を批判するのは結構ですが、それはまず批判対象者の文意 ・文脈を正しく踏まえることが前提条件では無いでしょうか。

 次に。

>確かにアメリカではフィリーバスターが市民権を得た戦術と なっていますが、あれはルールの枠内で行われていること、長 時間演説をしたり毎回違ったまともな緊急動議をだし続けるこ とは相当の知力と体力がいることへの賞賛という意味も含まれ ていると思います。審議拒否と同列におくことはできないと思 いますが。<(たぬたぬさん)

 あなたが「民主主義の権化」だと評価されていたアメリカ合 衆国の連邦議会でもフィリバスターという少数派の採決妨害が 「市民権を得た戦術」であることを認めるわけですね。あなた は多数には必ず従うことが「民主主義」だと繰り返し説かれて いたわけですが。

 なお、私がフィリバスターを例に出したせいか、たぬたぬさ んは今度は<フィリバスターと審議拒否は違う>という議論を 展開されていますけど、米国の連邦議会では「審議拒否」とい う戦術もしばしば用いられていますよ。念のために。

>第一、「多数による不当な実力行使」と言いますが、その不 当正当は誰が決めるのでしょう?少数派が決めるのですか?野 党は与党と考え方が違うから違う政党なのであり、与党のやる ことに不満があるのは当然でしょう。(中略)

 たとえばもし(あくまで例えばです)「皇国愛国者党」が議 席を持って、「福祉に金を使うのは税金の無駄。この予算案は 不当である!」と予算委員会でやりだしたらどうします?それ も正当な反撃手法ですか?もしそれが正当か不当か決めなけれ ばいけないとしたら、その正当不当を判断するのは、「国民の 投票」以外にあり得ず、「自分がやる審議拒否は正当な審議拒 否」「他党がやる審議拒否は不当な審議拒否」という考え方は あり得ないわけです。<

 たぬたぬさんは私が言うところの「不当」という語彙の意味 を理解していないですね。

 「福祉に金を使うのは税金の無駄」等の論点は、政策次元の 相違でしょう。政党が違えば政策が違うのは当然です。そのこ と自体を「不当」だとは私は言っていません。また、単に与党 との政策の相違だけを理由に審議拒否や牛歩という戦術が正当 化されるなどとは、私を含め誰も主張していないと思いますが 。

 先日の私の投稿を改めて引用します。

「なるほど、盗聴法は「選挙」によって選出された「多数派」( 自民党・公明党・旧自由党)による「多数決」によって決せら れ、件の法案は「あらかじめ決められている決まり」によって 合法的に審議・可決されたものとして、成立しました(少なく とも当時の「多数派」はそう看做しているし、件の法律は現に 「合法的」に存在している)。
 しかし、法案の成立過程に理不尽があるならば、その非を指 弾していくことも「民主主義」においては重要なのではないで しょうか。無論、その手法として審議拒否や牛歩という戦術が 妥当か否かは十分に検討されるべきではありますが。
 (中略)たぬたぬさんが褒める米国の議会ですらも、「多数に は必ず従う」などという単純な論理では運営はされておらず、 多数派の不当には実力行使を以って抵抗することも少数派の正 当な反撃手法であるとされているわけです。」(以上、まこと ・11月3日投稿「『「民主主義の逆説」と向き合いつつ・・・( たぬたぬさんへ)』」より)

 私が与野党間の政策の相違では無く、「法案の成立過程」を 論点としている点に留意して頂きたいものです。

>ただ、野党のやり方も国会としてあるまじき姿だったのは確 かでしょう。あれできちんと言論で対抗していたら<(たぬた ぬさん)

 「盗聴法」の審議の際には、与党側が「もっと審議を尽くす べきだ」との野党の声を無視して一方的に審議を打ち切り、委 員会採決を強行しようとしたのです。野党が言論で議論しよう としても、与党がその場を与えなかったのですが。

 最後に。

>ワイマール憲法を堅持し、「全権委任法」なんていう狂った 法律を可決させなければ、ヒトラーの現実に気づいたドイツ国 民はナチスを権力の座からおい落としたでしょうし。<(たぬ たぬさん)

 少数派を弾圧し、ドイツ政治から近代立憲主義・議会制民主 主義を放逐してしまったナチスはドイツ大衆の圧倒的に「喝采 」を背景にしていました。なぜに当時の大衆は理性的な判断を せず、ナチスに「喝采」を送り、敗戦に至るまで自らの力でナ チス政権を打倒し得なかったのか-まずはそこから考えるべき でしょう。

 最後に、福田氏の著書から再度引用します。

「複雑な社会のなかでは政治の動きそのものもはなはだ複雑に なる。(略)社会生活が行き詰まり、大衆が不安で、いてもたっ てもいられない状況が出てきたときが民主主義の最大の危機で あります。どうしてこういう事態になったかが大衆の理解を越 え、またどうすればその困難から抜け出せるか見通しが立たな い。そういうときこそ、荒唐無稽のデマゴーグが大衆の支持を かっさらういいチャンスが生まれるからであります。実は民主 主義のこわさはここにあるのかもしれません。たとえばナチス のような運動は、それまでの特権階級の反動主義とちがって、 大衆がまさに政治の当事者として引っ張り出された民主主義の 時代だからこそはじめて出てきたのであります。しかも、一気 に権力掌握の機会を作ったのは恐慌であった。大衆の生活不安 をのさなかに、このひどい状態になったのは、すべてユダヤ人 が悪いんだと単純明快に割り切って見せて、ナチスが権力を握 ればすべてはよくなるという訴えかけで大衆の支持をかっさら い、議会の多数を獲得したからであります。」(以上、福田前 掲書169~170頁より。)

 ナチスと同一視できる訳では無論ありませんが、こうした政 治情景は、例えば「郵政解散」とも俗称される昨年の衆院総選 挙の様相とも相通ずる一面はあるのでは無いでしょうか。あの 時、自民党はほぼ「郵政民営化」のみに論点を絞り込み、既に 多くの識者からも反論されているにもかかわらず「郵政を民営 化すれば公務員の人件費も削減される」などいう主張を繰り返 すことで生活不安を抱く「大衆」に幻想を与え、「刺客」など を立てマスコミの話題をさらい、パフォーマンス選挙が展開さ れました。

 結果として与党が三分の二以上の議席を獲得した昨年の総選 挙において、選挙後に「自民党を勝たせすぎた」という世論調 査の結果がみられたことは、「民主主義」とは何かを考える際 に示唆を与えてくれるものだと思います。

 私たちの「国」の「民主主義」は「危機」に陥ってはいない だろうか-いま一度再考の余地がありそうです。

(*余談)

 以下は余談です。

>共産党とは、「共産主義」という虐殺と抑圧のイメージしか ない言葉を全面に押し出しているから、(略)賛同者が少なく、 野党なのです。<(たぬたぬさん)

 日本共産党は「科学的社会主義」を党のイデオロギーと位置 付けている政党です。「科学的社会主義」とは換言すれば「マ ルクス・レーニン主義」のことですね。

 「コミュニズム」の訳語を巡っては「共産主義よりも共同体 主義とでも訳した方が良いのでは?」との議論はありますし、 日本共産党の「マルクス・レーニン主義」の解釈、および「マ ルクス主義」そのもののあり方を巡っても様々な議論が「マル クス主義者」の間でも展開されています。

 しかし、あなたの議論は「左翼」内部からの共産主義・日本 共産党批判というよりは、どうも「マルクス主義」そのものを 敵視しているように見受けられます。でなければ、「共産主義 」そのものを「虐殺と抑圧のイメージ」という一語で括れるは ずがありませんから。

 以前、たぬたぬさんはこのように書かれていました。

「それは何より私達が日本共産党を支持しているから、愛して いるから、共産党がもっとよくなってほしいからではないので すか?」(以上、たぬたぬさん・9月29日投稿文「社会民主党に 乗り換えるなんてとんでもない話」より)

 「愛している」とまで書かれているわけですから、たぬたぬ さんの日本共産党への支持は単に選挙で共産党に投票するよう なレベルでは無く、いわゆる「シンパサイザー」に該当する人 だと認識していました。

 「共産主義」そのものを敵視する方が、何故にマルクス・レ ーニン主義政党である日本共産党に対して「愛している」と言 えるのか?私はその点がとても疑問なのですが、いかがでしょ うか。

*なお、本投稿文におけるたぬたぬさんの投稿文からの引用の うち、とくに断りを付けていないものに関しては11月11日付投 稿「民主主義の逆説(たぬたぬ)」からの引用です。