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主権人権

2006/12/1 灯台守 60代 自営業

 言うまでも無く主権とは国家主権を意味していますし、人権とは国家、社会を支える基本を構成する、個々人の権利を意味します。若い頃、夜学で法科に学びましたので、人権には関心が有りました。マルクスレーニン主義理論に、人権的根拠のない事に、始めから気がついてはいたように思います。ただ違和感を抱きませんでした。社会科学という言葉に、マインドコントロールされていたようです。

 ソルジェニーツインの収容所群島、サハロフ博士の出国事件の起きた頃、マルクスレーニン主義(日本共産党では科学的社会主義に置き換えた)に疑問が芽生えました。それから数年、気持は晴れませんでしたが、論理を断ち切る必要性は感じませんでした。数年前、思い出したように、未来社会に管理社会(生産財の社会管理)は有ってはならないと、気付いたと言うより、思いつきました。人間は管理されるべきではないと考えたからでした。晩生です。今でも。それから時々ひらめきが有ります。次第に確信に変わって行きます。

 マルクスは社会を構成する個人を、アトムと考えたようです。アトムの集積である人間社会を研究するのに、人間社会を“マス”(集団)として理解しようとしました。従って、社会主義です。人を個人として見れば、社会に対しては個人とは何であるか、と言う問いが会った筈です。マルクスにはそれが有りません。(エンゲルスの著書“家族私有財産及び国家の起源“はモルガンの”古代社会“を土台にしている為、人権的解釈も含まれる)人の社会を研究する原点は個々人です。人をアトムとして扱った為に、個としての人間の自由は、社会体制の範囲の人権に成ってしまったものだと思います。

 マルクス主義から離脱するには、もう一度、人を個として見る所から始めなければ成らないと思います。個としての人が形作る社会を研究する見方、此処が基本です。この様な観点から見ると、人の人権も見えてくるし、社会の人と人の係わり方も見えてきます。人は財産を得る事だけに生きては居ない事が見えてきます。人の持つ自由な意思、発想、価値観の重要性が見えてきます。人を傷つけ、人を愛し、何かを作り出す喜びが有ります。人と協力して達成した喜びが理解できます。

 今中国では、情報が管理されて、外の事件を知ることも出来ないのは何故でしょう。社会主義体制、共産党支配の枠組みを維持していく為の、悲しい努力です。社会主義体制が優先し、生きてゆく為に必用な情報さえ得られません。毛沢東によって社会主義社会へ盲進し、トウ小兵によって経済の市場化へ進まされ、個人の自由意志は経済体制によって翻弄されています。共産主義(社会主義)は目標とすべきではないでしょう。

 個人の平等は、全面的なものではなく、程度の差が有って良いと考えます。私の友人はHPで、“田舎暮らし”を提案しています。実現はしていませんけれど、奥様は付いて行くのに大変だなあとは思いますが、出来るなら実現して欲しいと思います。私も裕福に成る事は、大分以前に棄て、何かひとつでもやり切って見たいものと考えています。

 人の価値観は多様です。私は身勝手な物である事は、自覚はしているのですが、私の身勝手さが許される社会であって欲しいものと考えています。私は今、平等と言う概念と共に“対等”と言う概念を考えています。未だ確信を持っていませんが、人の尊厳は“対等”と言う概念とは切り離せないように思います。改めて、福沢諭吉の“独立自尊”と言う概念に心を寄せます。

 国家は始めは独裁者のもので有ったのか、支配者集団のものであったのか良く解りませんが、他からの干渉を排除し、国家と言う概念が出来上がった筈です。遠い未来社会は別として、国家にも対等と言う概念は在るものと思います。国家の国民には豊かに生活して行こうとする意思は有ると思います。社会主義社会を目指すように、過半数によって体制を作ろうとする人々の意志には賛成できません。国家の非武装と言うのは、ひとつの哲学です。国家の全ての人々の意思では有りません。多数を持って少数をひとつの体制に組み込もうとする事は基本的人権から見ても否定せざるを得ません。独立した国家は互いの自由を認め合う事から平和が始まります。一方的非武装は平和とは言えないと思います。相手の不可侵を“信じる”事で、相手(哲学、宗教、倫理観)に依存する事で、国民全体に押し付けて良いものではないと思います。安全と豊かさを、他に依存する体制は健全な思考とはいえないでしょう。