まことさんのT氏に対する民主主義をめぐる投稿を、非常に 感慨深く拝見しました。
全然関係がないようですが、教育再生会議が11月29日(水)、
「いじめ」問題への緊急提言を発表しました。「いじめを行っ
た加害生徒への対処が肝心」「いじめを傍観・見て見ぬふりを
していた生徒も加害生徒とみなす」「いじめを看過・放置して
いた教師は懲戒処分する」「いじめへの対処法として体罰も辞
さない」という、厳罰主義・厳格主義思想に貫かれています。
29日夜の「ニュース23」で尾木直樹氏が、「再生会議はし
きりに『いじめは反社会的行為だ』というが、規範の強調より
も、まず以て『いじめは(被害生徒の)人権侵害だ』と言うべ
きだ。『いじめ』に該るかどうかの見極めだとか、それが『反
社会的行為だ』と教え込むことに腐心するよりも、『いじめ』
という言葉を使わないでも、どうやって被害生徒ひとりひとり
の人間としての尊厳を守るか、加害生徒の居場所をなくしてし
まうような『排除』ではなく、加害の背景にあるであろう加害
生徒の『人間の尊厳の侵害』をも見据えた人権回復を、教師・
生徒・保護者・社会が一緒になって考える場を作るべきだ」と
いう趣旨のコメントをしていました。
まったく同感です。
最近、さまざまな運動や論調にも感じるのですが、怪しげな 根拠に「立脚」した「上っ面の・薄っぺらい正義感」が、表面 的な正当性論理を振りかざして「悪者」のレッテル貼りに狂奔 し、問題の根本的原因の究明だとか、解決への現場の地道な努 力を足蹴にしているように感じられてなりません。それは、ワ イマール共和国において「全権委任法」を成立させた民衆心理 への地ならしとも言えるものです。
例えば、
都立七生養護学校「性教育」問題などは、知的障がいを持
つ子の発達を保障し、彼・彼女らが自分の身を守るという課題
に不可欠の前提知識を、どうやって伝えるかという観点からす
る教育現場の知恵を、「道徳規範」を盾にして乱暴に踏みにじ
るやり方(http://www.ne.jp/asahi/law/suwanomori/sei_jittai.html
)だったと思います。いじめ問題では、もっと無数に、現場の
優れた実践が行われているはずです。それを個々の孤立した「
点」ではなく、「線」で結び、さらに「面」へと拡げていくこ
と、そうしたことにこそ、国や地方行政は力を注ぐべきだと感
じます。
「いじめはケシカラン」、お手軽にここで思考停止してしま
ってはならないのです。
そして、このような思考停止に繋がるような「お上の権威・
権力」をかさに着た、「法律の定めるところにより」(現行教
基法10条を改悪した改定案規定の文言)行われるトコロテン式
教育など、決して許されてはならないのです。もちろん、この
サイトのみなさんには当然のことでしょうが…。
ちなみに、本投稿第2段落・再生会議提言の「いじめ」のと ころに、「危険思想の保持・鼓吹」を入れてみて下さい。治安 維持法とその運用そのものです。あとは、「危険思想の保持・ 鼓吹は国家に反逆する『反社会的行為』だ」という思想を、上 からトコロテン式に浸透させればよいのです。愚等虫さんが「 嫌な言葉だ」といわれる、「反日」というレッテル貼りのイメ ージ作戦の意味が、よく理解できるのではないでしょうか。
せっかく、海老名香代子さんや陰山英男さんを委員にしてい るのに、非公開会議でこうした「提言」をするようでは、「靖 国懇」で、首相の靖国参拝に慎重論を採っておられた故芦部信 喜先生が利用されてしまったのと、同じ結果になる危険が感じ られてなりません。中曽根内閣以来の、トップダウン方式によ る「審議会政治」の危険が、小泉内閣以降極点に達しているよ うに感じます。
民主主義の実践はもともと、手間と忍耐と知力の要る仕事だ と思います。誰かの用意した「お手軽な論理や結論」に飛び付 いていたのでは、民主主義は百年経っても本物にはなりえない だろうと感じます。しかもその「誰か」さえ、「下々の者には 分らない、高遠な理論と実務経験を有する人々」という触込み で、政治権力の都合がよいように操作されてしまいかねません 。だから、どのような方向性をめざす運動であっても、ごく少 数の人々のみが到達した「真理」を普及するというスタンスで は、決定的な何かが足りないのだと思います。「形式は同じだ が内容が正反対だ」というのではなく、「内容が違うからその 運動の形式もまったく違う」という地点を目指さないと、「草 の根」の運動にはならないだろうと、最近、痛感しています。