以前、欧米では経済学、歴史学、政治学のようなものは、哲 学的知識体系の中に属すると書いた。欧米の大学ではこれら学 問の権威をdoctor of philosophy(日本では皆同じ博士)の 称号を授与する。自然科学的知識体系とそれ以外の知識体系を 区別する慣わしである。
残念な事に日本では、明治の頃にもたらされた、科学が既に 各分野毎に分化していたために、サイエンスの訳語として“科 学”と言う訳語を当てた。その為、統合されたサイエンスと言 う概念が曖昧のままである。マルキシズムは哲学である筈が、 誤って社会科学であるかのごとく理解されている。共産党のマ ルクスレーニン主義を不破哲三氏は“科学的社会主義”と言い 換えた。これも誤解を与える一因である。
日本人は、天皇制に凡そ70%(単なる私の記憶)程の支持 を与えているようだ。私も文化としての天皇制に同意する。凡 そ1500年程の歴史の重みを文化として感じている。しかし、政 治的には共和制に心を寄せる。日本人として頼朝、家康は先祖 様でも有る。
マルクスの政治的影響は、現代も敷き続いて存在する。階級 論とか、史的唯物論とかの言葉もマルクス理論から派生してい る。学問の分野でも多くの理論がマルクス理論の派生語が潜り 込んでいる。この為、社会科学分野の発展が随分と阻害されて いると考えている。
私の好みの歴史的分野も例外ではない。井沢元彦「逆説の日 本史」でも、氏はマルキシズムに敵意すら抱いているようだ。 数十年間(50年間に近い)、私は歴史書に親しんできた。多く の発見はあった。マクロ的に見ると、日本史の展開は鈍い。
ほんの少し、歴史の展開を試みたい。――「宋書倭国傳」よ り
自ら使持節都督倭.百済.新羅.任那.加羅.秦韓.慕韓. 七国諸軍事.安東大将軍.倭国王と称す。
順帝の昇明二年、使いを遣わして表をあぐる。曰く、「封国 は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰彌ら甲冑を貫き、山 川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国 、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐこと九 十五国。土を拓き畿を遥にす」(ワープロではでない文字は変 えた)岩波文庫[魏志倭人伝...]
和田清 石原道博編訳――
さて、「宋書倭国傳」上記文書を読み解くと、倭国王は七国 諸軍事つまり、軍事的支配権を自称している。これは太祖の元 嘉二年(425年)文書の一部だが、この後二十八年(451年)に 、倭王より先に調貢していた百済を除き、六国諸軍事安東将軍 に除正している。此処の文章からすれば、倭王は征服王である 。他の読み方があるだろうか。しかも、この倭王王朝は古事記 日本書紀に有る、大和朝廷と繋がる王朝としか考えられない。 この後文章は、東は毛人を征する事五十五国...とある。毛 人、衆夷、海北を征し、服し、平らぐとある。征服者である事 を言っている。
問題にしたい次の点は、毛人と記されている事だ。“えびす でも”、“蝦夷”でも無く、後の大和朝廷からすると、毛人は えびすと発音されていたのだと考えられる。宋書に毛人と記さ れていたと言う事は、倭国の上表文か、その写しが残っていた のではないかと考える。さらに、毛人国が五十五国有ったと言 う事だ。毛人国は毛人部落でない事は明らかだ。部落五十五な ら都内に収まってしまう。毛人国は部落を超えた、何らかの政 治的関係で結ばれた地域を有する概念が有る。毛人国と言う概 念は、縄文人にも繋がる概念である。この毛人国=縄文人と言 う概念は考え直す必要があるといえる。
次に、衆夷である。“夷”と言う言葉は、自分の仲間には使 わないのではなかろうか。“夷”と言う字を使う以上、自分達 は“衆夷”とは異なると言う概念が含まれていると考えるのが 当然ではないか。“衆夷”を倭人と考えると、この征服者は倭 人ではない。倭王と称するのは、倭の地の王と言う解釈が出来 ると思う。海北はどうだろう。海北と言う視点では、自身が海 南にいて海の北をイメージしているように見える。海北では、 民族的には捉えていない。と言う事は、自分達とは違うと言う イメージは無い。少なくても支配者同志では、同族関係と見る 事は出来るかもしれない。海北は百済、新羅、加羅と国名が記 されているのであるから、それらの国々を支配下に於いて、倭 人を、毛人を支配した戦士集団的イメージが浮かび上がる。
毛人=縄文人、縄文人は狩猟採取文化、従って、階級差は無 い。国家など作らなかった。階級思想に毒されている学者はそ う考えるかもしれない。百済王は自らを夫余より出ず、と言っ ている。中国史書の在るものでは、長城近くに百済郡が有った 事が記されているものが有る。百済の始まりは、騎馬の戦士集 団であろう。唯物史観(発展論)では征服者集団は見えてこな い。日本の支配者集団もこれと同じではなかろうか。
文章が長くなり過ぎたので此処できります。これは歴史のほ んの一部についての見方です。哲学を哲学的知識体系として理 解して論じるのは害が有りません。色々な解釈があるのである と理解すればよいのです。哲学を科学(自然法則)だと主張す ると、害になります。科学には色々な解釈はありません。自然 法則ですから。