コメントありがとうございます。
簡単にお答えします。私が「マルクス理論の尾っぽをつ けてはいる」ということですが、誰であれ、それを意識するか どうかに関わりなく、先人の思想を何らかの形で受け継がない で、それぞれの領域で議論などできないものです。「社会の基 礎を、個人の人権を基に考えています。」という灯台守さんの 思想についても同様じゃないですか?
社会主義と社会民主主義の相違についてですが、私が議 論しているのは、近代西洋政治思想史上の全体的議論ではあり ません。社会主義の潮流にしてもいろいろあるわけで、私が問 題にしているのは、19世紀の70年代以降に主流になってく る社会民主主義(ドイツ社会民主党に代表される)と、第1次 世界大戦によるその分裂の問題であり、その思想と分裂が戦前 来日本においても再生して今日に至っている問題なのです。
政策を論じて、綱領を論じるな、綱領には哲学が入るか
らである、という議論ですが、これは無理は話です。灯台守さ
ん独自の考え方です。
社会の大きな曲がり角となる時代にあっては、ある程度まと
まった政策全体が変わってきます。それは政府与党の政治を見
ればわかるでしょう。それをおおざっぱに「新自由主義」と呼
んでいますが。その与党の政策の大幅な変更の中にも、今後の
社会の変化がどういう方向に進むのか、その流れにどう対応す
るのか、その流れが肯定的に評価できるのか否か、そこにはど
うしても個々の政策に分解できない、諸政策の変化を方向付け
る世界の変化についての大局的見方(世界観=哲学)が必要な
のです。それは与野党を問うものではありません。
日本国憲法にも哲学があることはいうまでもないでしょう。
民主主義というもの自体が、個々の政策の単なる集合体ではな
いでしょう。そこには思想があり、世界観があります。綱領と
呼ぶのは、そうした諸政策のまとまりとそれを方向付ける世界
観を言っているだけです。
政治の世界では、哲学を持つことが問題ではありません。そ
れは不可欠で、哲学の絶対化が問題になるのは、政権の担い手
となって個人の内面を拘束するようになった場合だけです。自
己の哲学を絶対化して現状に適応できない野にある政党は淘汰
されるだけですから、批判すれば良いだけのことじゃないです
か?
「社会主義理論(マルクスイデオロギー)につい ての反省はあるのでしょうか。イデオロギーの何が問題だった のでしょうか。唯物論でしょうか。階級論でしょうか。経済学 でしょうか。その全てでしょうか。」
いろいろ反省すべきことがありますが、しかし、このよ うに一般的な形で問題を持ち出されても答えようがありません 。これまでの世界中の共産主義者がよってたかってケンケンが くがくやっているとしか答えようがありません。私がここで簡 単に言えることは唯物論(これにもいろいろありますが、ここ では弁証法的唯物論というもの)には何の間違いもないでしょ うということだけです。それをスターリンの図式的、機械的な 共産主義理論に災いされて、様々な分野で具体的に研究し適用 するうえで大きな誤りがあったということです。
「私は以前、哲学と科学は区別すべきであると書 きました。哲学は、実証する事の出来ない理論だからです。」
人類史は哲学から諸科学を分離してきた歴史です。物理
学さえ古くは哲学に埋もれていました。だから、一般的に、哲
学と科学は区別すべきですと言っても、何も言っていないこと
とかわりません。個別科学のうえで、何が科学で何が科学でな
いのかを具体的に論じなければ単なる抽象論にすぎません。
「社会の基礎を、個人の人権を基に考えています。」という
灯台守さんの考えはどうでしょう? その議論の基礎にある人権論にしても、それは科学でしょうか? 生まれ
ながらに人間には人権があるということをどのようにして科学
的に証明できるのでしょうか? 哲学そのものじゃないですか
。だから、人類史の現在の段階ではまだまだ哲学を必要として
いる分野があるのです。
「体制を前提とし、人権を体制の後に置く政治体制には反対な のです。」
この議論も一般的すぎます。灯台守さんは共産主義を念
頭に置いているから、こういう議論になるのでしょうが、日本
の戦前と戦後の変化を具体的に考えてみてください。戦前から
の民主主義が、民主主義的政策の積み上げで今日のように変化
してきたわけではないのです。まず、国家体制全体の転換があ
って、憲法体制という民主主義的国家体制が一挙にできあがる
という経過をたどっています。この体制の転換があってはじめ
て個人の人権も定礎されています。
今後の日本の社会の発展ということに限定して言えば、灯台
守さんの議論に賛成します。
「憲法9条を絶対化することには反対です。」
これはどういう意味でしょう。誰が絶対化しているので
すか? 「当面は格差社会の緩和、福祉年金等の充実、失われ
た日本の歴史の回復のための政策が涵養と思います。政策実現
の共同行動こそ必要です。」という主張と関係があるのですか
? つまり、当面は格差社会の緩和、福祉年金等の充実の政策
で十分であって、それらの政策に9条擁護政策を合わせて政治
運動を進めるべきではないという意味なのでしょうか?
これならば、政治運動の進め方の問題になります。政治運動
の進め方の問題として言えば、様々な見解を持つグループがあ
っていいわけで、一緒にやっていけるところで共同すればいい
だけのことではないでしょうか? 「格差社会の緩和、福祉年
金等の充実、失われた日本の歴史の回復のための政策が涵養」
ということには賛成です。
ただし、9条を切り離せということには反対です。国民
投票法案が成立し、改憲が国民投票にかけられてから運動する
のでは遅すぎるからです。政府与党の進めている現在の政策全
体は憲法体制の根本的転換(改憲)に帰結する一里塚として行
われているからです。
現在の与党の政策は20年前のものとは根本的に違います。
当時のそれは直接憲法体制の転換と結びつくものではなく、そ
れぞれの当時の事情に対応する個別的な政策転換であって、そ
こでは9条問題を合わせて運動の課題にするということは問題
にもなりませんでした。しかし、現在の政治情勢は当時とは全
く違います。政府与党が問題にしているのです。ここでは灯台
守さんと私の間には、9条認識と政治情勢認識の違いがありま
す。