灯台守さん、こんにちは。
貴方の投稿は、日本人に欠けがちな論題、その重要性、明快な語り口など、楽しく読ませて頂いています。ただ論点が重要だからこそ、どうしても一言言いたくなりました。僕も日頃考え込んできた極めて重要な「誤り」が一面正しく批判されていますが、失礼ながら「水を流して赤子まで」と、ちょっと単純化して述べられているという気がいたしました。その次第を述べてみます。
さて、人間の全ての持ちうる判断、命題が、人々はもちろん哲学者たちによっても科学的、実証的に処理されているわjけではありません。また判断、命題ならまだ良いのですが、人々の行為となるともっとそうのはずです。つまり、実証の前に、判断することもなくもう行為しているなんて日常茶飯事。哲学者たちの生きてある姿も間違いなくそんなものでしょう。そこで、現に存在する「思わず行動してしまっているというような世界」も「公論」の対象になるか否かという問題が生じます。この問題に対してこそ、様々な哲学流派の態度が最もぱっくりと別れてきたのではなかったでしょうか。あるものは「方法が間違えば出されたものはアブクにすぎぬ」と語り、あるものは「泳ぎもしないでその方法を考えようなんて、お前は馬鹿か。泳ぎ方より泳ぐこと自身の方が大事だろう!」、他の者は「現に生きようとはせず、その目的を語らず、人生を考える方法を考えますなんて、お前は老人か!」、さらには「先ず生きよ、それから哲学せよ」などなどと、もう百家争鳴の有様。
ところで、「議論の対象にならない」、実証とか科学とかの外にあるような世界は個個人ご自由にと言ってきた人々が、そういう世界を大切でないとしたわけでは全くありません。信仰とか、「恋愛至上主義」だとか、「唯美主義」だとか、「革命思想」だとかは、むしろ実証からはほど遠いものではないでしょうか。実証主義大哲学者といえども、学者個人を見るならばそういう方々が圧倒的に多かったと思います。なんせ、生きているということそのものが、決断、判断の連続であって、到底実証が間に合い、それに耐えられるものではないからなのだと思います。浮き世のことでは恋愛とか職業とか家族とか戦争、心を振り返って愛、罪、神などなど、重要な問題ほどそう扱われてきたと断言しても良いほどなのではないでしょうか。
さてこういう次第からなのでしょう、当然実証主義を批判する流派も多いですね。それもその哲学生命を賭けたように、非常に厳しく。実存主義、宗教哲学などは、そんな批判をしました。人間の最も大切な世界が公論の対象にならないなんて、哲学としては全くナンセンスだね、これじゃそもそも哲学は何のためにあるのだ、本末転倒の哲学だぞなどなど、もうクソミソだったはずです。
次にマルクス主義ですが、これについて貴方が言われることは少しその本質からはずれているというか、貴方がその亜流についてのみ語っているというか、そんなふうに僕は思いました。マルクス主義を従来の実証主義、科学主義のように語るのは、その亜流についてのみ言えることだと僕はずっと考えてきたからです。「科学的社会主義」なんて全く変な概念だとは、実は僕も言いたいのです。旧社会主義国の教科書などでもそのように「変にあつかわれていた」のではなかったでしょうか。因みに既に亡くなられた僕の恩師は西田幾多郎門下のマルクス主義哲学者ですが、以上の問題を凄く意識されていました。「科学」という言葉をある哲学の命名にまで拡大してもってくるのには大反対でして、いつもこう語っていたものです。「科学的社会主義はおかしいよ。せめて学問的社会主義と語って欲しいね。ドイツ語のビッセンシャフトは本来そういう意味ですよ。ファッハ・ビッセンシャフト(科毎の学)じゃない」、「日本科学者会議なら、哲学者は加入できませんね。学術会議のがよほど良い」などなどです。だからと言って哲学が全ての学の学だなどと昔のように言いたいわけではあ日本科学者会議なら、哲学者は加入できませんね。学術会議のがよほど良い」などなどです。だからと言って哲学が全ての学の学だなどと昔のように言いたいわけではありませんよ。およそ人間のことには全て主体が絡むわけであって、それを捨てて対象を見つめるなんて、さらにそういう方法を人間のことにも適用するなんて、およそ抽象的なこと、ナンセンスなことですと、僕も言いたいわけです。「自分にとって大事なことは、確率的にでも、蓋然性でも、先人にも学びながらとにかく一定整理して方向を決めて、多少なりとも意識的実践的に生きたいものだ。ちがいますか」と、こんなことを僕は言いたいのです。
ご承知のようにマルクス主義は、その哲学的側面としてはヘーゲル左派から生まれました。このヘーゲルはと言えば、実証主義者とか分析哲学者とかからは詭弁家のように語られてきたことが多かったはずです。そこだけを見ても本来のマルクス主義は実証主義、科学主義ではないはずです。ところで、「詭弁家ヘーゲル」は、その哲学の特徴、弁証法、思惟即存在への批判だったのではないでしょうか。僕流に語らせていただくならば、人間達の言ってきたことと行ってきたこととを照合させたその結果を概観しつつ、そこから出てくることから総合的に判断して、諸命題を出してくるというような特徴です。ヘーゲルもマルクス主義も歴史を問題にするのはそういう特徴からのことだと考えます。ヘーゲル左派から出発したマルクスはこうして、フランスの政治、イギリスの経済を学び、やがて、初めて人間史を概観する「ドイツイデオロギー」を書きました。
こうして、マルクス主義から歴史論的に出てくる諸命題も実証主義、科学主義が言うような命題ではないはずです。だからこそ実証主義的な概念としてはその命題を取り扱えはしないし、逆にこれらを、実証主義者達が実証の裏面に持たざるを得ない信念、「公論外のもの」のように断定することも違うと、僕は言いたいのです。
取り急ぎですので、ここまでにしておきます。自分で読んでもかなり乱れた文章と思いますが、真意をお酌み取りください。お返事をお持ちしています。