戦前戦後を通じ、日本の知識人としての丸山真男の評価は高 いようだ。多くの論説の内、私の興味を引く論説のひとつがこ のササラ型、蛸壺型論だ。論理の発展で分化して行くヨーロッ パ文化論としてのササラ型と、俺様論としての個々人ばらばら の重層性の無い日本的蛸壺論は、常々、私の主張する“科学と 哲学を区別すべき”論と重なり合う点があると思っている。
どう言う事かと言うと、ヨーロッパの学問体系は、キリスト 教神学に包摂された形のギリシャ哲学以来の哲学的知識体系と 、その中から生まれでた科学的知識体系とで、プラグマチズム 的様相をもって成り立っていると思っている。何が科学で、何 が哲学かは、どのように論理的発展が有ったかと言う、歴史的 分化のされかたを知れば、明らかな筈であろう。しかし日本に はその歴史が無い。日本に科学的文化がもたらされた明治期に は、ヨーロッパでの科学は部門間の分化をしてしまった後であ った。従って、ヨーロッパの“サイエンス”(ドイツ語ではwissennshaft 知識又は知り得た事柄とでも訳せるか)は、日本では“科学” と訳される事になった。“科学”では、各科に分かれた学問と 言った意味しか伝わってこない。哲学から科学が生み出される に当たっては、実証的法則性という飛躍があった筈である。
マルクスはそれを知っていたし、だからこそ、弁証法的唯物 論と言う科学に合致し得る哲学論を展開したのでは無かったか 。弁証法的唯物論の後に繋がる、マルクスの社会科学的論理( 哲学である)と、実証的法則論の科学を繋ぐ“認識論的哲学” として、弁証法的唯物論を考えたと推定する。弁証法的唯物論 は狭く取れば、単なる認識論であり、科学的視点(客観的視点 )を言おうとしたに過ぎない。言い捨てれば単なる認識論の哲 学だ。それ以上ではない。
マルクス個人は、苦労人である事に代わりは無い。ヨーロッ パに於ける、支配者階級から被支配者階級を救済すべく、論理 の発見に努力した事には、間違いはあるまい。しかし、基本的 考察が誤っていた。科学には弁証法的唯物論と言う哲学は、必 要としてはいなかった。観念論か、唯物論かなどという論議は 必要ではなかったのだ。ただ推定的法則性に実証(確かめる) と言う作業が伴えば良いのである。それが、観念論と言われて も、唯物論と言われてレッテルを貼られても、実証する事で物 事の正否は明確だ。弁証法的唯物論は、マルクスの言う“社会 科学と言う哲学“と、所謂、自然科学とを結びつける役割以外 に無かったのだ。
論理が丸山真男論とずれたが、ササラ型、蛸壺型論は上記の ように、サイエンスが分化して日本に伝えられて定着した事と 、マルクス理論が歴史に於いても、経済に於いても、事実のマ ルクス的理解(事実の哲学的理解)に問題があった。人間の生 活の中で経済が重要な事は論を待たない。被支配者階級の経済 的救済に焦点を当てた論理を展開しょうとした為、人間社会は 経済が土台として、他をその下に置いた。成立した社会主義諸 国の人権を無視した反体制弾圧を招いたし、人命軽視を招いた 。丸山真男はこの哲学と科学の区別を着けていたのかどうか、 私の見方は不明である。丸山真男は、現代でも明確にされてい ない哲学と科学の違いについて論に、歴史を踏まえた重層的文 化のヨーロッパ文化と、各個人の論の優先する日本文化の在り 方に焦点を当てる目は、さすがと言わざるを得ない。