私の論理は、何方かの論理を代弁するものでは有りませ ん。歴史的知識体系を踏まえ、自分成りの論理に至ったもので す。
当初人類は何処でも、事実と推理のよって世界を理解しょう としました。論理もそのひとつでしたでしょう。西洋でひとつ の革命的出来事がゆっくりと進行して行きました。科学の誕生 です。実証法則の科学でした。
科学誕生以前の西洋では、自然は神(造物主、クリエイター 、キリスト教の神)の創造物でした。当時のキリスト教では、 神の意志を知る“司祭”(バチカン、支配機構)が、人間と神 の間を取り持っていました。しかし免罪符事件を期に、キリス ト教徒の間に、神と個人との直接的信仰が叫ばれ、プロテスタ ントと言う人々が現れました。印刷術のような技術の発達も加 わり、社会に多大な影響を与え、人々の基本的考え方を変革し てゆきました。その様なバチカンと言う権威に頼らず、神の意 志を探ろうとする人々も現れてきました。ガリレオガリレイは 敬虔なキリスト者でした。望遠鏡と言う技術を使い、天体観測 をしている内、神の意志(神の法則)が地動説である事を突き 止めました。キリスト教の権威(バチカン)は天動説を支持し ていました。ガリレイが如何に敬虔なキリスト者であっても、 キリスト教の権威から、破門の決定を受ければ、世俗での生活 は不可能でした。
ニュートンはイギリスの神学者であったと言われています。 事実の積み上げから、万有引力の法則の発見者と成った人です 。ニュートンは造物主、クリエーターの創造意志、神の法則の 発見者です。プロテスタントや信仰心の薄れる中で、神の法則 は、自然法則とみられて行くようになります。科学法則と成る のはすぐそこまで来ています。これが科学と言う飛躍です。科 学はこの歴史を踏まえて発展してゆきます。マルクスは、この 科学的推移に注目し、後、弁証法的唯物論と言う認識哲学を思 いつきました。人間社会を構成している個々人は、意思と言う 主体性を持ち合わせており、その個人を合わせた集合体として の社会も、個々人が意志を持っています。マルクスはこれを個 として、社会法則の構築を考えました。フランスの階級闘争は 史的唯物論となり、ドイツの観念哲学は弁証法的唯物論となり 、イギリスの経済学は資本論として世に出ます。経済的弱者の 救済と言う目的は誤りでは有りませんが、基本が科学であろう としたにもかかわらず、哲学でした。哲学は実証性を伴わず、 見方を変えれば、百者百様の論理に変化します。しかし、目的 が弱者としての非支配者階級の救済であった為、人類に多くの 協賛者を得、多くの影響を与えました。
日本に科学が伝えられたのは、ヨーロッパに於いて、科学の 研究が進み、広がり、その研究する分野が分化し、有った時で した。明治維新期にもたらされた科学は既に各科毎に分化して おり、“サイエンス”の訳語として“科学“とされました。科 学と言う語感からは、分野毎に分化した学問、と言う感触しか 伝わってきません。従って、自然科学、社会科学、人文科学と 言った学問の分類型が主流と成っており、”科学誕生時の飛躍 “が曖昧であり、論理性が有りません。論理が飛躍したり、誤 った論理が大手を振って一人歩きしています。
社会人類学者中根ちえ先生の研究に「タテ社会の人間関係」 と言う著者が有ります。日本の大学と留学先のイギリスの大学 の状況をひとつのエピソードで、紹介しています。英国では、 教授同志の間が親密で、学生から講師資格を得ると、たちまち 、講師陣とファーストネームで呼び合う間柄となるが、学生の 間は講師と学生と言う厳とした格差がある。日本では講師とそ の学生との師弟関係が重要視されており、講師間の関係は疎遠 であると言う事だ。
この事は丸山真男もササラ型、蛸壺型と言う言葉で指摘して いる。科学と言う根っこはひとつで無ければならない筈が、講 師間の交流がし難いため、個々人の持論がすり合わせられず残 ってゆく状態になる。日本にとって重大な損失であろう。