インドは歴史、文化の有る、不思議な国だ。IT産業とカース トの同居する、未来と過去の同居を含む国でも有る。
或る、元外交官氏がユネスコ日本代表団として、パリに赴任 していた時の事を述懐して、会議では“文化、民主主義、普遍 性、知的と言った言葉が行き交い”と表現されていた。もっと も、肯定的というより否定的表現では有った。日本人は論理的 表現が苦手なのである。
仏教を生み出したインドは論理的表現の得意な国だ。サンス クリット語はギリシャ語と性質が似ている所が有ると言う事だ 。インドヨーロッパ語族として、一括りに見る見方が有力であ る。概念を名詞化したり、語尾を少し変える事で普遍化したり 、否定を否定したりする表現が多い言語であると言う事だ。言 い換えると論理的表現に向いているのかもしれない。“0ゼロ ”の発明や、“仏教の論理”の組み立ては、古代に於ける“論 理学”を発達させる要因でもあったのであろう。
一方、日本や中国では“普遍”より、“個別”が中心的表現 であり、論理学の発達は無かった。
科学は論理的文化の中から生まれ出たものである。もっとも 、個々の科学技術の発見は、論理的延長の賜物ばかりとは言い 難く、感性的直感に負う所も少なくない。問題は、人間の集団 的行動を、論理的行動に集約出来るのかと言う所であろう。言 い換えれば、政治的論理性が社会的合意を得られるかと言う事 である。
インドやオリエント諸国は過去の輝かしい歴史を持ちつつ、 現代の経済的苦境を脱し得ない理由を、尚古的文化と決め付け る訳にも行くまいが。中国は、明らかに尚古的段階があった。 現代は、近代化を進める一方、尚古的儒教的文化は濃厚である 。日本も同じで、政治的政策は現実主義(リアリティ―)とは 言えず、論理性は無視されている。“9条を守れ”と言う情緒 、言い換えれば、他への依存を理想化する論理(自分は武装し ていないのだから、相手は攻撃してこない、と言った論理)が 横行している現実。!!攻撃しなくとも支配はするでしょう( と言うつぶやき)女は殺しはしない、支配したいだけだ(と言 う例え)!!
論理を前面に掲げた政党は、日本共産党である。論理が基本 的に間違っている。政策の論理性は無い。論理を前面に出し、 かつ、“現実主義的”(リアリテイ―のある)政党の出現を待 ちたい。
日本文化は学問としての漢文化を受容したが、仮名文化を生 み出した。まごころ(至誠)と言う文化を生み出した。明治維 新はその様な文化を生み出した日本人が作り出した傑作である 。未来を作り出すのも、日本文化の真髄(情的部分)とヨーロ ッパから受容した合理性との混合されて行く過程ではないか。 呉善花(韓国女性)氏は著書の中で、日本のサービスについて 述べている。呉善花氏が飛行機に乗り遅れそうに成った時、航 空会社の女性職員の対応を忘れられないと言う。携帯電話でコ ントロールルームと連絡しながら飛行機の出発を留め、客であ る呉善花氏の大きな荷物を引き受け、“大丈夫、大丈夫”と客 に声をかけながら走り、ハアハア息を切らせながらタラップま で送ってくれた航空会社女性職員のサービスは、日本人の誇っ ていいスーパーサービスであり、未来社会を連想したそうであ る。私も呉善花氏の著書を読みながら、“まごころ(至誠)” は消えていないと感じ、氏にそれを取り上げてくれた事を感謝 している自分を感じた。明治維新を作り出した原動力(感性) は、近代的装い(合理性)の下、未来社会を作り出す力に成り 得る事を示していると思っている。情緒的平和主義者は現代と 無縁だ。論理を理解する平和主義者こそ未来人であろう。