少し古くなるが、『人権と部落問題』(部落問題研究所刊)という月刊誌の2006年 7月号の巻頭随想に、作家・詩人の辻井喬さんが、「憲法の問題に幅の広さを」と題 する短文を寄せている。その末尾は、次の二文(一段落)で締め括られている。
いろいろな団体に出かけて議論をしていると、時々、かつての苦い経験からたくさんのタブー(禁忌)を抱えこんでしまって、敵を味方にするのではなく、純粋性を過度に仲間に要求して敵を増やしてしまう言動に遭遇する。これは本人が善意なだけに、とても残念なことだと思う。
辻井さんはこの引用文の直前で、辻井さんの持論としてあちこちで見かけられる 「人間が本来持っている美しい三つの能力」について語っている。それは、
第一に敵を味方にしてしまう説得の能力であり、第二に相手の立場に立って考えるという想像の能力であり、第三に、お互いのためになることを考えつき、実行に移すことができる社会的な能力だ
ということである。
ところが実際には、「敵を味方にする」どころか、「純粋性を過度に仲間に
要求して敵を増やしてしま」う善意の言動がある、というのである。
これは、本人が善意であるだけに、「とても残念な」ことであると同時に、とても
厄介なことでもある。「純粋性を過度に仲間に要求する」人々から見れば、本来「仲
間」であるべき人たちが、「不純な」、敵に荷担するような人間に見えてしまってい
るからだ。
辻井さんは、その原因を「かつての苦い経験からたくさんのタブー(禁忌)を抱え こんでしまって」いるからだと指摘している。つまり、過去の経験を突き放してみる ことを通じて、自分自身を客観視できない状態だからだ、ということではなかろう か。
今回の都知事選の経過を見ると、日本共産党にきわめて近いところにいた(あるい はその内部にさえいる)人々からも、石原都政を終焉させるという目標のために、広 く共同行動をとるべきだという声が上がってきて、それが市民運動に結実していると 思う。
民主党のような、本来第二自民党でしかない都政与党の支援を受けるような連中 に、石原都政を終らせるべき真の理由である、都民いじめの政治を転換することな ど、到底望むべくもない、実際、他県知事として県民いじめの政治を実行してきた人 間に、ましてやそれができるはずもない、という論理は、一見明快である。
しかし、それは結局、政党本質論と人物論が、ストレートに否定的結論に結び
つけられているだけであり、そこには、担ぎ上げた人たちである、運動を担った市民
への分析は全くない。「純粋な」人たちにとっては、これら市民運動の影響が、
より政治的には「奥手」の人たちに「不当な影響」を与えないよう、声を上げるだけ
である。実際、「赤旗」の庶民の声の特集には、「自分は以前は自民党支持だった」
という人物の声が多い。「純粋な」人たちの視野の中には、石原三選阻止を掲げた市
民運動を多かれ少なかれ担っている人たちの認識を変えることさえ、入っておらず、
まさに「敵を増やしてしま」う非難に終始しているのである。
市民運動の人たちの輪の中に、従来「トロツキスト」として日本共産党から毛嫌い
されていた人物が含まれていることが、どのように「純粋性の要求」に影響したのか
は、定かではない。
それは、ちょうど「平和の風」運動に対して、新社会党だとか、「解同(部落解放
同盟)」と繋がりがある人物の参加を問題視して、「純粋性」を要求した態度と、瓜
二つであるのかも知れない。
しかしそのような態度は、まさに辻井さんが「残念に思」っている、「憲法改悪阻 止の運動の幅の広さ」を、妨げる結果に通じてはいないか。
石原都政は、昨年9月の東京地裁判決が明確に違憲と断じた「日の丸・君が代強
制」を、行政命令で押し通してきた、改憲を先取りしたような反動都政である。だか
らこそ、かつてない広い人たちが、「石原知事をやめさせろ!」と草の根から声を上
げたのである。
「何が、真に石原都政の転換となりうるのか」で厳密に一致しなければ、共同行動
をとれないというのは、そういう、自然発生的・半ば盲目的に声を上げ始めた「遅れ
た」人たちと行動を共にすることを通じて、その人たちの直ぐ傍にいて政治的影響力
を行使する絶好のチャンスを、自分から放棄してしまうことに繋がっている。
「民衆の政治的成長における、共通経験の深さを担保する課題」から、逃避し、「自
分が行動しやすい範囲」で「たたかっている」のである。この人たちに、本当の
「草の根」は見えていない。むしろ、「テレビやマスコミに惑わされやすい、暗示に
かかりやすい愚か者が、残念ながらたくさんいる」、という醒めた認識に取り憑かれ
ている。
しかし、多くの民衆が、まだ政治的に十分に成長を果たさず、形を変えた抑圧的政 治に民主的な幻想を懐いているとき、その中の肯定的な要素を最大限に伸ばしつつ、 その幻想の姿をありのままに「深く」経験してもらうことも、その「次の一歩」をよ り確実な、より質的に高いものとするためには、不可欠なものではないのか。
「政策の正確さ・正しさ」だけが唯一の行動基準になるというなら、自分がそのよ うに認める範囲でしか「共同」もありえず、政治的共同の事実上の否定に繋がってし まう。カレーライスもハンバーグも食べたいといっても、胃袋は一つしかないのであ る。「食べる」ことを優先すれば、「もっとも食べたいものはどれか」を選択する以 外にはない。「カレーライスもハンバーグも食べたい」とどうしても言い張ること は、「無理して食べ続けていれば、そのうち胃袋も大きくなる」、あるいは、「どち らも食べられるほどに胃袋が大きくないのがケシカラン」ということである。
しかも、現在の情勢では、民衆の「幻想」の対象の一つである民主党は、自らの政
権交代という野望のために、とにもかくにも、「生活格差の是正」を高唱し、改憲慎
重論や改憲手続法慎重審議論にまとまらざるをえないのである。「そんなにいうのな
ら、一緒にやってみよう!」と、どうしてイニシアティヴをこちら側からとれないの
か。民主党がこれを拒否したり、共同歩調をとりつつ裏取引や裏切り行動に出たりす
れば、それこそ民主党の自殺行為になる。「幻想」の幻想性が白日の下に曝されるの
である。
まして、市民運動が担ぎ出した人物は、当人自身がきわめて率直に語っている感想
からも窺えるように、ある意味で自身が「成長途上」にあると見ることができる人で
ある。簡単に「幻想だ!」と切り捨ててしまう必然性はない。
先に、別のところで、3月27日付「赤旗」政治面掲載のコラム風無署名記事が、 「『無党派』を標榜する候補の政党に対する支援要請」について「舞台裏を暴く」と いう視角で書いていることを指摘し、自党の推薦候補を「『広範な無党派都民』とと もに推薦している」と掲げている日本共産党自身はどうなのかと問うた。政党が、特 定の党派を前提としない無党派の市民運動からの支援要請を受けて、選挙において支 援活動をするということは、何らおかしな行動ではない。それを何か後ろ暗い行動で あるかのように揶揄する、「赤旗」記者の姿勢こそ、「広範な無党派都民」という共 産党のスローガンが実体のないお飾りでしかないことを自己暴露するものである。 まさか、その書き込みを見たからではないだろうが、今度は、日本共産党が推薦す る候補は「無党派」ではなく「革新無所属」であると言い出し、「こそこそと隠さ ず、堂々と共産党の支援を受けています」と言い出した。
ところが、その後日談のような記事が3月31日(土)付「赤旗」B版第4面の中央 に、署名入りで掲載されている。すなわち、菅直人代表代行と並んで演説したこと を、
宮城県知事時代に「脱政党」宣言をおこない、今回の知事選でも、民主党などの支援を受けながらも、「無党派」「市民派」を前面に出していたことからひょう変したのです。
といっている。
志位委員長は、吉田万三候補と並んで演説しなかったというのか。「広範な無党派
都民と日本共産党が推薦する」という(形容する言葉の順序に注意して欲しい)こと
は、「『無党派』を『前面に出していた』」ことではなかったのか。ご都合主義もい
い加減にして欲しい。そしてさらに、
石原都政で「オール与党」の一翼を担い、知事提出の議案にことごとく賛成してきた民主党の全面支援の(ママ)受け入れたことは、自ら、現職の石原候補と違いがないことを告白したに等しいものです。
というのである。
いまの地方政治の重大な課題の一つが、「オール与党体制の打破」であることは間
違いない。中央与党とそれに迎合する勢力が、地方議会において「翼賛議会」的無機
能ぶりを発揮しているため、まさに浅野前宮城県政が批判されているように、地方政
治が「中央の下請」のようになってしまい、地方住民の生活の防波堤となるべき地方
自治が損われている。
このオール与党体制打破のためには、まず以て地方議会自体が、「オール与党」に
席捲される現状を打ち破らねばならない。それが先決である。また、同時に、「中央
政府の下請」のような地方自治の本旨に背く地方行政のあり方も、変えていかねばな
らない。そのために、しっかりとした首長が必要となるはずだ。
地方首長も地方議会も、ともに直接選挙の民主的基盤に立っている。
首長選では、「丸投げ」委任にならないような、継続的な地方住民の意思反映のシ
ステム構築がぜひとも必要だ。そのシステムを現実的に機能させるために、情報公開
が必須なのである。それらは、けっして「政党対決」の枠組みに収まりきれる問題で
はない。また、そのような構図に持ち込んでしまってはならないのである。それは民
主主義の基盤をなす普遍的な課題だからである。表現の自由・知る権利が「健全な民
主政の基礎」といわれる所以でもある。おそらく、「赤旗」記者には、このような理
解がないのだろう。しかしそれは、いままさに共産党が地方議会の政務調査費問題で
主張している、「領収書の完全添付」制実現の民主主義的意義を、主張者自身が、十
分に理解していないことを物語るだけである。
さらに、「オール与党体制」といっても、地方自治体レベルによってさまざまな
「お国事情」の反映があり、けっして一様ではない。とくに、市町村レベルになる
と、中央の政党区分の構図は、そのまま当てはまらないことも多い。都道府県レベル
でさえ、石原強権都政と一体化するほど、都議会民主党の反動的役割は突出していた
と言える。いま都民が直面しているのは、単なる保守政治ではない。ファシズムを先
取りしているような、突出した反動都政なのである。だから、「反石原」がそのまま
「反都議会民主党」ともなりうる契機を含んでいるのだ。「民主党はオール与党の一
翼を担っているから、それに支援された候補者はとんでもない候補者だ」と、十把一
絡げに言えることではない。
それは、この候補者を候補者として連れてきて、立候補を決断させたのが、何ら都
議会民主党でないことの一事を見ても、はっきりしているのではないか。
そしてこの記事は、こともあろうに、
もっとも、浅野氏の優柔不断、信念の欠如ぶりを示すのはこれだけではありません。同氏は、態度をあいまいにしてきた東京オリンピック招致問題で、都民の受けが悪いとみるや、二十七日の会見で突如、「中止」を表明しました。
と続けている。
私は、この問題は実質的には両者が同じところに帰着するだろうと予測していた
が、そのとおりになっただけである。それを、「優柔不断、信念の欠如」と言えるの
は、自分のみが「正しい」という立場からだけである。記者は、結局この結論に反対
なのか、賛成なのか。「立ち止まって考えた」結果、「中止」という結論が出たその
過程自体は、記者はどのように評価しているのだろうか。
浅野氏の選挙戦術といい、政策といい、あまりにも無節操です。
これが結語である。最初から「確固として純粋に固まって」不変な立場こそが、今 回の具体的な状況を前にしてどうして「正しい」と言えるのか、その根本問題には、 何も答えていない。立候補決断の遅れ、市民運動の未熟さ等々から、当初から「完 璧」な政策が出せなかったとしても、運動の過程で民衆の声をより反映した政策を展 開する、それは当然のことではないだろうか。
「推薦は求めないが支援は頼む」という姿勢は、たしかに分りにくい。しかしその 趣旨は、「政党推薦候補という政党をバックにした選挙運動をするのではなく、市民 運動の延長で選挙運動をしたい」ということであり、その実務面では、選挙慣れして いる政党の援助を受けたい、ということでしかない。それを「身勝手なおねだり」と 見るかどうかは、個々の政党が今回の候補者選定に関する市民運動の役割をどれだけ 評価しているか、また、市民運動一般に対して、どれだけの位置づけを与えている か、に関わっている。
その点で見ると、先にも述べたように、「過去の経験から仲間に過度の純粋性を要
求し」、民衆の多数派を形成する過程を、民衆自身の深い具体的経験からどのように
して推し進めるかという、民主主義の見地からもっとも大事な観点を傍らに置き去り
にしてしまう、隠された民衆蔑視・市民運動敵視の態度を、「純粋な人たち」から感
じ取るのは、幻覚なのだろうか。
民衆の立場・役割を、単に「『正しい』政策を支持し、それを掲げる候補者に投票
する」だけに貶める発想は、けっして民主主義とは相容れない。そのことを、純粋な
人たちは、どれだけ実感しているのだろうか。