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「ゆすり40周年」 岐路に立つ日本

2007/8/30 さとうしゅういち 30代 サ ラリードパーソン(社会市民連合事務局長、連合組合員、一応 民主党員)

 今年は,アメリカの「日本ゆすり」40周年であることが,30 日公開の外交文書で,明らかになりました。

 1967年の佐藤ージョンソン会談でのことです。沖縄・小笠原 返還問題を前進させたい佐藤首相に対し、ジョンソン大統領が 「われわれを助けるために5億ドル出してほしい」と繰り返し 求める様が生々しく記されている。日本側は翌年約3億500 0万ドルの資金協力に応じた。

 当時,世界は「ブレトン・ウッズ体制」の下にありました。

 金1オンスを35USドルとさだめ、そのドルに対し各国通貨の 交換比率をさだめた。

 この固定相場制のもとで、日本円は1ドル=360円に固定され た。

 この体制下で西側諸国は、史上類を見ない高度成長を実現。 特に、日本は1950年代から1970年代初めにかけて高度経済成 長を実現し「東洋の奇跡」とよばれました。

 安定した自由貿易の利益が先進工業国全体の経済を改善した のです。

 しかし,固定相場制では,あまり赤字が続くと,当時なら1 ドル=360円というドルレートを維持できなくなります。

 ベトナム戦費がかさんだアメリカは,貿易赤字が増えてきま す。

 切り下げを期待したドルを投機筋が売り浴びせ,資本流出と いう破綻もありうるわけです。(1992年の欧州通貨危機などで は実際に起きていた)。

 変動相場制なら,赤字なら自然に,ドルが下落して国際収支 が調整されますが,固定相場制ではそうはいきません。

 そこで,アメリカは資金援助を日本に求めだしたのです。こ の年はアメリカ経済が弱体化をはじめた年といえるでしょう。

 そして,日本がアメリカにお金を流し,モノを買ってもらお う,こういう体制のはじまりでもあります。

 結局,アメリカは1971年,「土俵を割り」ます。1971年にニ クソン・ショックによりアメリカはドルと金の交換を停止しま した。1973年には、変動相場制に移行し、ブレトン・ウッズ体 制 は崩壊したのです。

 それでも,アメリカは「事実上の基軸通貨」を維持した。資 本流入を維持し,なんとか実力以上の経済を維持しようとした 。とくにレーガン政権下では高金利を維持し,資本流入を進め た。日本の生保には米国債を大量に売りつけた。だが,貿易赤 字は巨額に上った。

 そこで,1985年にプラザ合意で円高に誘導。一方で,87年の いわゆるブラックマンデー以降はとくに急激なドル崩壊を防ぐ ために,日本には金融緩和を行わせ,お金をアメリカに流出さ せ ます。

 しかし,アメリカ政府は容赦せず,アメリカの赤字の原因を 「日本の構造」にあると決め付け,日米構造イニシアティブ, さらには94年以降の「年次改革要望書」で,日本経済の構造を 無理やりかえさせようとし,日本の政府もとくに小渕政府以降 この流れを加速化し,小泉政府で完成しました。

参考:アメリカ大使館WEBサイト:経済・通商関連http://japan.usembassy.gov/j/policy/tpolicyj-econ.html

 小泉総理は2002年,ブッシュ大統領と会談直後に竹中平蔵さ んに金融大臣を挿げ替えました。竹中さんは「金融再生プログ ラム」を強行。金融機関に中小企業からの「貸しはがし」を行 わせました。景気がよくなれば助かるような企業,あるいは, 法人税を一応納めているような企業までが,「減損会計」「時 価会計」に基づいた審査基準で,つぶされていった。一方で, お金は海外に急激に流出しました。

 日本政府は,イラク戦争が始まった2003年から2004年にかけ ては財務省が35兆円のドル買いを強行。国内では地方交付税カ ットや発泡酒増税などを強行したのにです。

 日本政府は,アメリカの「ドル体制」護持のため,必死でこ れを支えた。最初は資金援助,だんだん国債購入。最後は,自 国中小企業を犠牲にしてまでの金融的な支援。

 この端緒が「佐藤ージョンソン」会談です。

 輸出市場としてのアメリカの崩壊を防ぐ必要から行われた日 本政府の数々の経済政策。最近ではその結果,日本国内の貧困 増大を招いています。何のためになにをしているかわかりませ ん。

 「世界版・北条高時」ブッシュ大統領の「滅亡」に巻き込ま れる日本http://www.news.janjan.jp/government/0708/0708231212/1.php

 いまや,アメリカの凋落は覆いがたいのです。アメリカ を土俵際で日本は支えていますが,このままでは,「土俵を割 ったアメリカの下敷き」になって日本のほうが,大怪我をしか ねません。40年たった今,日本は政策転換の岐路に立た されています。

http://www.asahi.com/national/update/0830/TKY200708290327.html

 米、執拗に5億ドル要求 67年の佐藤・ジョンソン会談2007 年08月30日10時00分

 沖縄返還交渉の本格化を前にした67年11月の日米首脳会 談で、米国が国際収支改善を目的に日本に対し5億ドルの資金 協力を執拗(しつよう)に要求していた様子が、30日付で公 開された外交文書で明らかになった。米国の資金協力要請につ いては、米国側公文書や関係者の証言などで明らかになってい たが、日本側の外交文書でも裏付けられた形だ。

 公開されたのは、当時の佐藤首相が訪米した際に行われたジ ョンソン米大統領との会談録抜粋。2日間で計3時間に及んだ 会談で、沖縄・小笠原返還問題を前進させたい佐藤首相に対し 、ジョンソン大統領が「われわれを助けるために5億ドル出し てほしい」と繰り返し求める様が生々しく記されている。日本 側は翌年約3億5000万ドルの資金協力に応じた。

 72年の沖縄返還に際して日本は、米軍資産の買い取り名目 など3億2000万ドルを支払った。さらに日本の裏負担によ り米側は約2億ドル分の利益を得たことが米公文書で明らかに なっている。同会談での資金協力要求は、こうした利益供与に つながっていく「出発点」だとの指摘もある。

 会談でジョンソン大統領は「国際収支問題で援助できるはず 。何故(なぜ)5億ドル出せないのか」などと国際収支改善の ための資金協力を求めた。背景にはベトナム戦争で膨らんだ戦 費などがある。北爆前の64年には21億ドルだった米国の海 外軍事援助などは、会談のあった67年には31億ドルにまで 増加。国際収支(貿易収支や資本収支などの総合収支)の赤字 幅は、35億ドルと膨大なものになっていた。固定相場制では 国際収支の悪化はその国の通貨の不信認に直接つながる。

 それに追い打ちをかけたのが、主要通貨だった英ポンドの対 米ドルレートの切り下げ問題だ。ポンド切り下げは、基軸通貨 であるドルの不信認に拍車をかける。

 会談の1日目では「一層切迫した問題がある。ポンドの問題 である」と、沖縄に関する佐藤首相の発言を制するようにジョ ンソン大統領が切り下げ問題を持ち出していた。会談の3日後 、ポンドは切り下げられた。金井雄一・名大大学院教授(イギ リス金融史)は「ポンド切り下げが、ドル危機誘発につながる ことへの強い危機感がにじみ出ている」と見る。

 会談終盤でジョンソン大統領は「自分も日本を助けるためで きるだけのことをするから、総理も私を助けるためできるだけ のことをしてほしい」と発言する。伊藤隆敏・東大大学院教授 (国際金融)は「日本を助けるとは沖縄返還のことを指してお り、取引を迫っている。沖縄返還を巡る交渉は会談以降に先鋭 化するが、その走りがここに表れている」とみる。

 米国側の危機感に対して日本側の反応は鈍かった。佐藤首相 は「5億ドルでは困る。3億ドルが支出しうる最大の額」と反 論した。当時の外貨準備は20億ドル程度しかなく、日本には 重い負担だった。

 結局議論は平行線で、日米貿易経済合同委員会の下に小委員 会を設置することで合意。68年1月にハワイで開かれた小委 員会で、兵器の購入や直接投資として1億ドル支出するなど計 3億5000万ドルの資金協力が決まった。

 浅井良夫・成城大教授(政治経済学)の話 ポンド切り下げ 問題で、米国が国際収支をいかに心配していたのかが浮き彫り になっている。5億ドルの要請は、イラク戦争まで続く防衛上 、金銭上の協力を日本に求める姿勢の始まりという印象だ。