文字以前にギリシャやインドに芽生えた哲学は、現代で も多くの同調者(信者)が存在している。哲学では、人間社会 を含めた自然をどの様なものと見るか(自然観)、と言う所か ら、見方によって多くの理論が出てくる。そして現代でも同じ ことが繰り返し行われている。無論自然観の認識は、時代と共 に深化してはいる。ギリシャのデモクリトスの唱えたと言われ る“アトム”の理論は、マルクスの“唯物論”に引き継がれて 来ている。
哲学論は、自然観の一つの見方(論理)ではなかろうか 。見方を変えれば異なる見方も可能である。其の見方が正しい か正しくないかの問題である。人間の認識は、唯物論的視点も 、観念論的視点も可能に出来ている。唯物論的概念が正しいと 考えれば、唯物論的視点で自然観は解釈できる。
日本共産党は、宗教者でも入党できる。それは、マルク スは現世を問題にしているので、来世に付いては問題にしてい ないからと説く。唯物論(マテリアリズム)は、人間の魂に付 いては問題にはしていないのであろう。とすると、観念論との 違いが見えて来ない。私流に考えると、観念論も唯物論も見方 を変えたのみで、基本的には意味の有る捉え方ではないのであ る。
所で、科学的視点(リアリズム)はどうであろうか。科 学では哲学と異なり、“事実を確かめる”と言う事が大きく異 なる。哲学的知識体系は、科学的知識体系によって置き換えら れる。弁証法的唯物論も、階級論も、資本論も一つの見方(概 念)である。其処から導き出された理論は、如何に膨大でも、 時が来れば一朝にして覆る。単なる認識論(哲学)だから。
不破氏の著書“科学の目”は、哲学と科学の違いを認識 できていない。日本共産党の混迷は、此処にある。マルクスレ ーニン主義を科学であると強弁し、社会科学であると認識して いる事から混迷が始まっている。此れは基本的問題認識の問題 で、少々問題を遡って考えても、問題の解決は無い。更に、民 主主義についての認識も誤っている。多数者革命でも少数者の 人権侵害には、抵抗権を持って応じる権利を否定できまい。
アメリカで発展したプラグマチズムは、社会主義者の中 で発展している。もし、“日和見主義”と言う概念を言うなら 、此れが当てはまる。 今後、格差是正の問題等、時間をかけて書きたいと思っている 。問題の性質上、私のヤフーブログ「提案者」に書く積りであ る。興味のある方はご一読願いたい。