国民の声ですか。?
「自公政権はもうたくさんだ。何とかして。民衆の嘆きの声
が聞こえないのか。野党票を集めれば、自公と互角以上に戦え
るのに、何をしているんだ。
改憲やファシズムの脅威が、目の前に迫っているのに、自分
の党の利益ばかり考えて、何で共闘ができないんだ。」という
のが国民の声ではないだろうか。
それに対して共産党中央は、他の政党をどう見ているのだろ
うか。
「今日の民主党は、自民党政治の「三つの異常」を共有する政 党であり、政治の 基本でどちらかが「よりまし」とはいえないのであります。」( 三中総)
共産党中央は異常なまでの民主党批判と「確かな野党」の前
進こそ日本の未来を切り開くとして社民党、新社会党批判.攻
撃を繰り返している。
このような共産党中央のセクト主義的.独善主義が、戦前の
「社会民主主義主要打撃論」「社会ファシズム論」の誤りの再
現となることを危惧する。
共産党中央は「戦前から、反戦平和のために一貫して闘って
きたと主張している。
戦前共産党が反戦平和のために闘った、それは事実だ。
しかし、その内容を見てみよう。
1、27年テーゼにおける統一戦線から社会民主主義政党を排除
するセクト主義
2、コミンテルン第六回大会の社会民主主義主要打撃論に基づ
きファシズムとの闘いより社会民主主義との闘争を優先させた
。
3、32年テーゼの社会ファシズム論
その結果
1928年 全国非戦同盟を「平和主義」と批判し、「一切の戦争
に反対するという社会民主主義的平和運動を小ブル的運動と攻
撃した。
1932年 反ファシズムをスローガンとして結成した日本労働組
合会議を攻撃した。
1933年 上海反戦に対し、最初は好意的で代表派遣も呼びかけ
たが、社民排撃の立場から開催に反対に転じた。
これらの誤りが統一戦線を結成し、戦争を阻止する上で否定
的な役割を果たしたのも明らかではないだろうか。共産党中央
は、この問題に一切ふれようとしないが、この方針が変更され
たのは、「日本の共産主義者への手紙」だった。
「戦前の日本においては、民主主義への方向へむかってのい かなる改革も、国民の政治的自由の獲得も、天皇制の打倒なし には不可能だった。だからこそ、共産党は治安維持法のもとで 死刑の脅威にさらされながらも、天皇制打倒を革命の戦略目標 と考え、そのために闘ったのであった。
1936年にいたって、前述の岡野、田中の手紙(注「日本の共 産主義者への手紙」岡野(野坂)、田中(山本懸蔵)連名、注は風 来坊)によって、天皇制打倒から、より広範な反軍部統一戦線 という戦術的発展がおこなわれた。
「軍部は天皇制機構のうちのもっとも反動的なもっとも野蛮 な帝国主義」であり、「軍部、反動、戦争に全勤労者を統一す ること」が、「天皇制打倒の戦略的任務を達成するための、当 面の戦術である」とされたのである。」(戦後革命論争史 第 四章民主戦線戦術をめぐる論争 上田耕一郎)
上田氏は戦術的発展などと表現しているが、これはそれまで
の社会民主主義打撃論、社会ファシズム論から人民戦線戦術へ
のコミンテルンが方針変更したのに伴うものである。しかし、
共産党は1935年袴田中央委員の検挙で壊滅しており、この手紙
は、日本の共産主義運動に殆んど影響を与えていない。
つまり、共産党は戦前、統一戦線を組織するのに何の役割を
果たしていないのである。
上記で引用した戦後革命論争史は、上田耕一郎氏、不破哲三
氏の共著と言われている。今読んでも共感できる部分が少なく
ない。
不破氏のこの時に謙虚さ、情熱、姿勢はどこに行ってしまっ
たのだろう。残念でならない。
不破氏がこの論文を書いた当時の謙虚さを思い出し、共産党
中央のセクト主義、独善主義的が多少でも改善されることを期
待して、以下のこの論文の引用でこの投稿を終わりたいと思う
。
共産主義者でさえ非転向は数えるほどしかいなかったという 過酷なわが国の歴史的現実を考えれば、それが戦争に協力した 人々への責任追及としてではなく、その人々への反省の呼びか けと協力の呼びかけとしてあらわれてこそ、さらに歴史の上に 光輝をもたらすものであったろう。
後になって志賀義雄自身が書き、丸山真男が戦争責任問題の なかで、鋭く提起したように、反戦闘争を組織しえなかった共 産党の政治指導の責任にたいする反省が欠けていたことが、当 時の国民的感情を底深くつかむことを妨げ、共産党を国民的共 感の組織者としての国民政党として出発させえなかった根本的 原因であったということができる。(戦後革命論争史 第四章 民主戦線をめぐる論争上田耕一郎)