風来坊さんの二つの早急に質問に答えたかったのですが今私は非常に多忙でこれまでに調べローザルクセンブルグに関する書物やドイツ革命に関するる書物をまとめきれないのです。したがってメモ的に書いたものをまとまらないままに投稿します。その時ドイツは革命情勢であったかについてはさらに検討して後に投稿します。
第1次大戦の敗北におけるドイツの労働者人民は塗炭の苦しみをなめていた。戦局の悪化とともに軍部への反発や戦争に反対する気運の高まりを招き、平和とパンをもとめるデモや暴動が頻発した。1917年10月に勃発したロシア革命とその成功はドイツの労働者を刺激し、1918年1月には全国規模の大衆的なストライキが行われた。
ドイツの敗北が決定的となったことで、参謀本部次長ルーデンドルフは、敗戦処理に当たらせることとロシア革命の二の舞を防ぐことを目的として、当時ドイツ最大の労働者政党であった社会民主党(SPD)を中心とする政府の樹立を主導した。首相には自由主義者のマックス・フォン・バーデン公が就任した。1918年10月に始まった休戦交渉は、連合国の提示した無条件降伏、カイザーの退位という厳しい条件に対して、軍部は少しでも有利な条件を引き出そうと、一部は戦争の継続さえ主張したため、遅々として進まなかった。一向に訪れない平和への希求から、また帝政の維持、戦争の継続に固執する軍部に対してドイツ国民は実力行使へと動いた。
1918年10月29日、ヴィルヘルムスハーフェン港にいたドイツ大洋艦隊の水兵たちは、ドイツ海軍司令部が出したイギリス海軍への自殺的な特攻作戦(「提督たちの反乱」)の出撃命令を拒絶し、反乱を起こした。11月3日、この出撃命令に抗議してキール軍港の水兵・兵士によるデモが行われた。これを鎮圧しようと官憲が発砲したことで一挙に蜂起へと拡大し、11月4日には労働者・兵士レーテ(評議会)が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧した。このような大衆的蜂起と労兵レーテの結成は、11月8日までにドイツ北部へ、11月10日までにはほとんどすべての主要都市に波及した。
11月9日、首都ベルリンの街区は、平和と自由とパンを求める労働者・市民のデモで埋め尽くされた。これに対してマックス・フォン・バーデン公は、革命の急進化を防ごうと独断でカイザーの退位を宣言し、政府を社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに委ねたが、事態は一向におさまる気配をみせなかった。
11月10日、社会民主党、独立社会民主党(USPD)、民主党からなる新政府が樹立される一方、ベルリンの労兵レーテ大会では労兵レーテを唯一の執権機関とすること、社会主義共和国を目標とすることが宣言され、二重権力状態が浮き彫りとなった。、国軍の多くの部隊が革命派になるか、雲散霧消してしまった。
11月11日、ドイツ代表のマティアス・エルツベルガーらが連合国との休戦条約に調印し、第一次世界大戦は公式に終結した。
12月16日、全国労兵レーテ大会で、多数派を占める社会民主党員の賛成により国民議会の召集とそのための選挙の実施が決定された。
12月23日、革命派の精鋭部隊である人民海兵団を武装解除しようとエーベルトが派遣した部隊との間に戦闘が起きたが、結局は撃退された。これに抗議して独立社会民主党は政府から離脱した。(人民海兵団事件)
第1時大戦末期から敗北にいたるドイツには革命情勢があった。(このことが質問の要点だがさらに調べて後に投稿する)しかしローザ・ルクセンブルグらは革命を裏切ったのである。決起した労働者は反動どもに血の海に沈められた。
1919年10月3日にバーデン公マックスを首班とする「階級融和」政府が誕生し、ドイツ社民党の一部(シャイデマンら)を閣僚に迎えて連立政権が生まれた。
「ドイツの危機は、革命のはじまりを意味しているが、いずれにせよ、革命の不可避性と接近が、いまや大衆にまざまざと見えるようになったことを意味している。政府は軍事独裁と、社会主義者との連立内閣とのあいだで決しかねている。だが、軍事独裁は本質的には1914年8月2日以来存在していた。そしてちょうどいまそれは弱体なものとなった。なぜなら軍隊がもはやたよりにならないものになったからである。シャイデマン一派を内閣に引き入れたことは、かえって革命の爆発をはやめるだろう、これらブルジョアジーのあわれむべき従僕たちは遠からずその無能力をさらけ出すだろうからである。それは必ずやプロレタリアートの権力奪取によって終わるだろう。」レーニン
「革命の一週間を総括するならば、このホーエンツォレルンの国家・ドイツにおいて、本質的には何一つ変わっていないことがわかる。労働者・兵士の政府は破産した帝国主義政府の代理人として機能を果たしているにすぎない。・・・これは決して不思議なことではない。文明世界の反動国家が24時間のうちに、革命的な人民国家に変わるわけがない。昨日、フィンランドや、ロシアや、ウクライナや、バルト諸国で反動の憲兵として、革命的プロレタリアートを虐殺していた兵隊たちや、それを黙って見すごしていた労働者が24時間のうちに明確な目的意識を持った社会主義の担い手になるわけがない。ドイツ革命のこの状態はドイツ国内の事態の発展の成熟度に相応している。エーベルト=シャイデマン政府はドイツ革命の今日の段階に相応する政府である。」ローザ・ルクセンブルグ
これを読む限りでは革命を売り渡した社会民主党党首エーベルトを支持していたように見える。反革命政府は立ち上がる労働者、兵士を弾圧し始め、そして己の党社会民主党内のスパルタクス派の虐殺をはじめたのである。ここにいたってもなお革命を、蜂起を否定した優柔不断なローザは虐殺されたのである。
「文明世界の反動国家が24時間のうちに、革命的な人民国家に変わるわけがない。」
二年前にロシア革命があったというのに、、しかもロシア革命は1917年11月に24時間のうちになしえたという経験を持っているのにそれを否定してはいないだろうか。
「世界を震撼させた七日間」には新聞記者だったジョン・リードがつぶさにその時の情勢を書いている。正確に覚えていないが「ボリシェヴィキはその時世間では一握りのならず者にしか見えなかった」と。レーニンは諸派の延々とした会議を見捨てて革命を指令したのであった。
これはなんということだろう。以下に見る。
「(1919年1月)6日、月曜日のベルリンで行われたプロレタリアートの大デモンストレーションは、史上かつて見られなかったような大規模のものであった。・・・ローランド(ベルリン市庁舎の前に立っている記念碑)からヴィクトリアまでプロレタリアートで埋めつくされていた。そしてプロレタリアートは、ティアガルテンまで埋めつくしていた。彼らは武装しており、赤旗は吹く風に翻っていた。彼らは何事をも喜んでなし、何ものをも、彼らの命すらも喜んで与えようとした。
大衆は朝9時頃から寒さと霧のなかに立っていた。そして、指導者はどこかで会合して協議していた。霧が晴れた。大衆はなおも立ち続けた。・・・正午となった。・・・指導者たちはなおも協議し続けた。そして労働者たちは革命的決起の指令を待つ間に日は暮家路に戻るのだった。彼らはスパルタカス派の指令を待っていた。
そして大弾圧が始まり労働者たちの射殺、ローザもカールも射殺された。
ロシア革命を罵倒したローザの最後は哀れである。しかしももっと哀れなのはドイツ労働者だった。ローザの日和見主義は革命後の反革命との厳しい戦いを勝ち抜かねばならないレーニン、トロツキーを非難している。彼女がロシア革命を指導していたならばその革命は3日も持たなかっただろう。
民主主義とはなんだろうか。今日本の国にある民主主義とは独占資本の民主主義であり、圧倒的な労働者階級には彼らに隷属するしかないではないか。民主主義とは圧倒的多数の労働者が少数を支配することにおいて最後の役割を終える。レーニンは民主主義をブルジョアジーを抑圧することにおいてのみあると考えた。搾取と収奪がなくなり階級がなくなった時民主主義は消滅するのである。共産主義社会とは真の自由へと向かう思想である。
しかしレーニンは彼女の虐殺されたことに対して哀悼の意を表し高くローザを褒め称えている。そしてトロツキーのドイツでの追悼演説は彼女を天才だと褒め称えている。
しかし私はそうは思えない。ロシア革命はドイツ革命によって支えられなければならなかった。そしてドイツ革命はヨーロッパへと波及し世界的な革命によってしか共産主義が実現することができないから、ドイツ労働者がローザとカールの革命的な意思を引き継ぐことを望んだのだと思う。レーニンは忍耐強い。彼を罵倒するローザに対して忍耐強く彼女が修正主義、日和見主義から脱却するのを待っていた。レーニンの死後スターリンが革命の成果を簒奪し、かつてのボリシェヴィキ幹部を徹底的に粛清して行ったのである。レーニンとぼるシェヴィキ派革命に対する責任を背負ったのである。
たとえば航空機に乗るとしよう。機内では多くの乗客はパイロットに運行を完全に任せねばならない。パイロットは訓練された飛行士であり、離着陸という危険に対して瞬時の判断を下して操縦するのである。飛行機に乗ればパイロットの独裁に従うのが正しいのではないだろうか。ロシア革命のあとの各国の干渉戦に対して、又反革命との国内戦に勝利しなくてはならないし、その勝利のあとのブルジョアジーの成長に対しても断固として革命を守らねばならなかった。それは独裁と呼べるかもしれないが、その独裁を嫌えばロシア革命は数年を待たずに敗北したでしょう。
だがレーニンの死後スターリンの支配は革命のためではなく自身の支配を意味していた。トロツキーはドイツに亡命しドイツ革命を指導しようとしたが革命の波はすでに引き、しかも彼はスターリンの追及から逃れねばならなかった。日本共産党はスターリン主義の系統を引いているのである。
ここに日本共産党の官僚主義を批判するためにローザを引き合いに出し、ロシア革命とレーニンとトロツキーまで否定する論がある。彼の論は日和見主義者ローザの観点から論述している。
[12月30日、ローザ・ルクセンブルクらのスパルタクス同盟を中心にドイツ共産党(KPD)が結成された。
ローザ・ルクセンブルク1919年1月5日、独立社会民主党員であったベルリンの警視庁長官が辞職させられたことをきっかけとして政府に反対する大規模なデモが起き、武装した労働者が主要施設などを占拠した。これに対して独立社会民主党や共産党は無為無策に終始したため、翌日デモは自然解散した。政府は革命派への本格的な武力弾圧を開始し、以降「一月闘争」と呼ばれる流血の事態が続いた。
1月9日、フライコール(義勇軍)がベルリンに到着し、スパルタクス同盟などの革命派と激しい戦闘を展開した。(スパルタクスの週)1月15日までには革命派は鎮圧され、また同日、革命の象徴的指導者であったカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが彼らにより殺害された。以降、各地に広がった労働者の武装蜂起は、ミュンヘンに成立していたレーテ共和国を筆頭に次々とフライコール(義勇軍)により鎮圧されるとともに労兵レーテも解体・消滅していった。散発的な蜂起やゼネストは続いたが、国防軍も動員され数ヶ月のうちにほとんど鎮圧された。
1月19日、国民議会選挙が実施され、社会民主党が第一党を獲得した。2月6日、ヴァイマルの地で国民議会が召集された。国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認され、いわゆる「ワイマール共和国」が誕生した。また、大統領にエーベルト、首相にシャイデマンが選出され、社会民主党・民主党・中央党からなる「ワイマール連合」政府が成立した。後には、当時世界で最も民主的な憲法とされたワイマール憲法が制定された。