最近世の中忙しくなったせいか、物事が専門化したせいか、宗教を含め哲学的命題の根本に付いて論じる人が少なく、過去の人や権威ある人の受け売りが横行しています。
デモクリトスさんはご自分の言葉で書こうとされている事に敬意を感じます。しかし、考え方は基本的点で異なるようです。認識論(哲学を含む)は文字のない時代から人間の文化を発展させてきました。此れは事実でありましょう。
哲学や宗教の違いは戦争や社会的混乱を招いている事も事実では無いでしょうか。私の哲学を認めない態度は、この点に視点を会わせています。未来社会は“支配構造社会”から“自治構造社会”へ、と言う考え方も同じ視点から見ています。
日本の“感性文化”に対して、ヨーロッパ文化の“対話文化”と言う対比も元を正せばマルクス、エンゲルスの哲学的誤りが日本の学問的誤った方向性を(欧米を含み)正したいと言う事から始めたものです。
個人の哲学観は自由です。其れが社会全体に蔓延した場合、人類の未来の方向性まで誤らせる事に繋がります。此れは、政治問題では無いので、基本的には「さざ波通信」では論じて来ませんでした。私には政治談議と比べる事の出来ないほど重要な事に思えます。
中国を中心とした漢字文化圏には、自然観(人間社会を含む自然全体の認識)を基にした“哲学”は起こりませんでした。その代わり、社会観(人間関係を中心に据えた)を持った“思想”が起こりました。儒教がその代表思想です。
人類の文化は、夫々の地域風土で発展して来ましたが、夫々の文化は進歩と言う一つの方向性をもって進化してきませんでした。各地に起こった文化は、夫々異なった方向性を持って進化してきました。
交通の便の良い地域では、文化は統合されてきましたが、それでも夫々の文化は特性を持っています。日本でも明治以来ヨーロッパ文化が流入しましたが、それでも未だに眼に見えない所で日本文化の特性は生き残っています。“感性文化”と言う概念はこの様な生き残った日本的文化特性を表現しています。
“契約の経済”に対する“信用の経済”と言う捉え方も、人間関係の文化的違いに有ると考えています。元東大教授の中根千枝「タテ社会の人間関係」も文化的基礎の違いを研究したものです。
明治期は、哲学と言う概念を含め、多くヨーロッパに育った概念が日本に流入して来ました。
困った事に、マルクシズム哲学では、この様に異なった方向性を持って進歩してきた文化を、ヨーロッパ的支配構造を持った文化を元に、一元的に理解しようと考えました。マルクスの時代は、ヨーロッパ文化こそ世界のスタンダードと理解していたからです。
此れも東大の仏教学者中村元「東洋人の思惟方法インド、中国、日本、チベット偏」に教わりましたが、インドの古語サンスクリットには、特有の特徴があるそうです。“概念”を“事実“と同等に扱うという特徴です。事実の事柄か、単なる概念なのか見分けが付かなくなるという特徴です。サンスクリットは近年ギリシャ語やラテン語の対比でインドヨーロッパ語族と言う括りで捕らえられています。
如何でしょう、日本では英語が普及しています。格変化と言うのをご存知であろうと思います。語尾の変化で動詞が名詞に変わったり、形容詞が名詞化する事は英語の文法を思い出せば理解出来るかと思います。これ等はインドヨーロッパ語族共通の文法です。
私は、ヨーロッパ文化は素晴らしい文化と思っています。しかし、無謬だとは全く思っていません。困った特徴を持った文化と考えています。
科学誕生の初期、ガリレオは科学と哲学の分離を主張しています。(WIKIPEDIA)哲学は科学の仮説では有りません。科学は事実にもとづいた確かめられた真実です。哲学や思想は人間の持つ認識を基にした“論理”です。哲学者が事実を元に事象を実証したら、それは哲学ではなく科学です。
デモクリトスさんに考えて欲しいのは、マルクス以前に“文化”の成り立ちに付いて考えて欲しい事です。過っての日本文化を“後進性“とのみ考えれば、其れで良いのでしょうか。ダーウインの進化論にも特性は統合ではなく、分化した物である事は明らかです。豊かで平和な社会を創造する為にこそ、私達の”脳“は働かせる物では有りませんか。詳細に付いては、私のyahoo blog「感性文化旧提案者」に有ります。