本題に入る前に、灯台守さんのおっしゃるように、哲学を
法律で規定することには、私も反対です。では真理はどの
ようにして、決まっていくのでしょうか?
かつてアテナイの街のなかで、ソクラテスは、賢人や若者
達と対話し、その中で哲学を形成していきました。これは
問答法と呼ばれています。つまり討論によって、真理を明
らかにしていこうとしていたといえます。
しかし、それで真理が本当にあきらかになっていくのでし
ょうか?私は、そこであきらかになっていくのは、真理かも
しれないものだと思います。それが真理かどうかは、最後
には実験をしてみなければならないと思います。実験をし
て初めて真理が確定するのではないでしょうか。
しかし、実験で真理が確かな物になったからといって、
それがすぐみんなのものになるわけではありません。その後
も多くの討論を通じて、たくさんの人達の支持をえるように
なって、ようやくみんなが認める真理となっていくのだと思い
ます。ガリレオの地動説もそれが真理とみんなに認められ
るようになるためには、長い年月を必要としました。
では本題に入って、唯物論哲学と観念論哲学について
ですが、唯物論哲学は物が先の考え、観念論哲学は、
観念(心)が先の考えだと思います。これだけ科学が発達
した現代でも、観念論哲学は間違っていると簡単にはいえ
ません。
それは次のような問題を考えればすぐわかります。
多くの人は「病は気から」とよく言います。これは病気にな
るのは心の持ち方が原因である、という考え方ですから、
観念論哲学であるといえます。そう考えれば、現代でも、
多くの人は観念論者であるといえるでしょう。
また多くのスポーツの指導者は「試合に負けたのは、根性
がないからだ。」とよく言います。根性というのは、心の持ち方
ですから、多くのスポーツ指導者は、観念論者だといえるの
ではないでしょうか?
このように、観念論哲学が間違っていると言い切るのは、
なかなかにたいへんです。
では、唯物論哲学とは、どういった考えでしょうか?
ものが先とは、どういったことでしょうか?
これについては、長くなりましたので、次回にしたいと思い
ます。