デモクリトスさんの文章の中に、“大きな意味で哲学は科学の仮説”と説かれていました。ガリレオは仮説から始めたものではありません。望遠鏡他の技術を使い、“事実”を確かめた(実証)事から始まりました。
未知を含む仮説は充分検討に値します。私もその方法で書いている積りです。全てが解っては居ませんから。ただし、科学的仮説は実証を(何等かの方法で確かめられる事を)前提にかかれます。哲学のように、何等かの概念を事実と決定した前提ではありません。マルクスは観念論と言う概念を唯物論と言う概念とを対立概念と規定して独自の哲学観を確立しています。
弁証法は単なる論理学上の方法です。弁証法自体には特別な意味がありません。史的唯物論を弁証法的に解釈する事で、特別な意味を付与しました。
階級対立と言う概念があります。インドヨーロッパ人の文化は、異文化の交流によって現在的変化を受けたものと考えています。その際騎馬文化を持ち合わせており、民族による他民族支配が起こり、支配階級と被支配階級と言う概念が生まれたと考えています。
アメリカ大陸の奴隷支配を思いかえさずとも、インドでは未だにカースト制が色濃く残留しています。無論、古代日本にも、国家形成過程では、支配、被支配関係が引き起こされて来ました。ただ、“感性文化”では、比較的早く階級支配は消えます。“階級文化”では、階級支配が同族間の政治的支配に転化し、支配関係は政治的色彩を濃く表しています。ヨーロッパ的階級支配との質的違いに依るものと考えられます。
日本での労働組合運動の基本は、企業内組合です。企業内に於ける利益の分配に於いては経営者と労働者は、立場が異なりますが、広国家経済、国際経済の中では、企業競争の中で経営者と労働者は、企業生き残りと言う点で利益を同一にします。一見産別に統合されている様に見える労働組合組織も、内部では企業内組織の連合組織に成っています。従って、連合労組の全国闘争の内部では、経営者と労働者の分配率の戦いであり、此の個々の企業内分配率争奪の連合体を為しています。
資産の多い少ないによって階級分けしても、それは本来、資産の格差を意味しているに過ぎません。最近は、格差社会と呼ばれる様に成りましたが、欧米的経済方式(グローバル化)には、少数の資産家と多くの資産を持たない者が作り出される事は明らかです。日本のみではなく、中国、ロシア、そして、これから発展する国々でも、格差社会は広がって行くでしょう。
マルクスの時代は、工場経営者と工場に働く賃金労働者との間に、基本的違いの“概念“を見出しています。それは、生産施設を持つものと持たない者の間の違いです。その中間人がプチブル(小資本家)と言う位置付けでした。現代社会では、巧妙に株式会社制度を取っています。少ない債権、信託証券、株式等の所有者は、現代的にはどの様に分類されますか。中国では最近、大株主に共産党入りが進められています。日本では、共産党員は債権、信託証券、株式は持ちませんか。
最も、現代的には私は金銭資産は実態資産ではなく、資産の“物差し”と考えています。実態的資産を持つほどの資産は無く、多くの人達は、此の物差しを持たされている様に感じられますが?
無論、マルクス、エンゲルスの時代には無かった社会状況です。その中で新しい状況が芽生え始めています。契約社員、フリーター、田舎暮らし、更に、多くのグループ、NGO,NPO等、金銭資産を求めない人々です。無論、未だ混乱期の人々です。
これ等の人々の将来像は、自治機構を作って行く上で、大きな役割をするものと期待しています。
現代国家は、支配者によって作られ、改善されて来てはいますが、基本構造は支配機構です。政府は国民を管理、保護すると規定されていますが。自立した人間は管理も保護も嫌います。自ら自制して自ら戦います。戦う相手は不正を行う人とです。自立した人々が多数者に成る事を未来社会、自治社会、そのための方策を“未来戦略”と呼ぶ事にしています。
共産党員が政権を取ると支配者になり不正を働くのは、社会主義社会構想は支配構造社会の変種だと考えています。詳しくは、yahoo blog「感性文化旧提案者」を一読される事をお勧めします。