科学という世界・人間探求の一側面に「科学主義」という概
念が存在しないのは当然であって、自明のことです。また、我
々人間ができるだけ科学的に政治や個人的関心を処理するほう
が良かろうということも、僕がまったく否定などできるわけは
ありませんし、現に先回も認めています。また、社会科学とい
う概念が果たして成り立つのかという問題も僕は共有している
つもりです。マルクス主義の科学主義的解釈に先回僕が異を唱
えたのは、この「社会科学」への疑問も関わっています。もっ
とも社会科学という概念などは、哲学としてはマルクス主義の
(積もりで居るほんの)一部の方にだけ通用する狭いものにし
か過ぎないものなのでしょう。
しかしながら、僕があげたような哲学諸潮流においては(そ
ういう「必然的な世界・人間探求の一側面」においては)、こ
の概念自身が事実使われてもきましたし、また、こう語ってよ
いはずの「視点」が現に今存在しているというのもまた、事実
です。例えば、それらの諸潮流が欧米主流の「科学哲学」の一
部を批判する場合のことを僕は語っているつもりですが、灯台
守さんはまさか哲学としての科学哲学批判をする諸潮流全てを
非学問的なナンセンスと語られるわけでもないのでしょう?
そういう「ナンセンス」と言われるかも知れない例をいくつか
あげてみますので、よろしければご批判下さい。
「価値決定を嫌い、『客観的』立場を標榜する傲岸な実証主義 者は価値に対する無欲をてらいながら実は彼の『実証的』認識 のなかに、小出しに価値判断を潜入させる結果に陥り易い」( 丸山真男「科学としての政治学」)
「科学哲学 事実認識をすべて科学に委ねて哲学の仕事を科 学の成果の分析に局限し、絶対的確実性(ただし内容空虚な) を論理学・数学だけに許容し、また道徳の領域では目的と手段 の内包関係だけが学的対象となりうる、と主張する」(岩波小 辞典「哲学」栗田賢三、古在由重編集、1955年刊)
「特殊科学は公理をいわば下から見ていくのであり、哲学はい わば上から見ていくのである。特殊科学と哲学とは、知識の性 質の上で相違がある。従って哲学から特殊科学の公理を導き出 すことも誤りだし、特殊科学の結論に基づいて哲学を組み立て ることも誤りである」(西田幾多郎「哲学概論」)
先回の投稿での僕は、そういう哲学が必然的に生まれて、現 に存在してきたし、その意味もあるということを語りたかった だけです。
僕も真下信一氏に6年、古在由重氏に3年ほど師事した一応
哲学学徒の端くれです。哲学という人間精神の産物の側面から
みるならば、以上のことはイデオロギー(この概念の意味がま
た哲学潮流によっていろいろ存在して厄介なはずですが)とい
うのではなくて、多くの哲学学徒が譲れない線だと考えますけ
れど。
なお、あなたがそうかどうかは僕は分かりませんが、科学哲
学の方々がよく「混乱している」という言葉を他の潮流に浴び
せるようです。上記の文章で丸山真男が、「傲岸な実証主義者
」と語ったのがそれを意識していることは明らかです。僕もあ
なたにのっけから、そう言われたわけですが、失礼なことだと
だけ抗議しておきます。