以前の投稿で、私は、日本共産党の存在は、自民党や民 主党の消滅より、大きな意義がある点に付いて書いた。今回は 其の点に付いて書いてみたい。
政治政党で有る以上、何れの政党でも自党の政策宣伝を するのは当然の事である。言論出版結社の自由が保障されてい るのは、個人の政治活動の自由に淵源している。処で、共産党 と言う組織には、他の政党と異なる点がある。一つは、経済を 含めた社会体制を変えようとする綱領の下に組織されている事 である。二つには、階級闘争と言う“闘争”を標榜する政党で あると言う事である。
現実には、此の二つとも国際的には破綻していると言わ ざるを得ない。しかし、此の元と成っているマルクス理論は、 完全に死滅した訳ではない。崩壊したソビエトの社会体制は、 崩壊しつつある中国の社会体制は、マルクス哲学から逸脱した もの、もっと、全体的には、社会主義こそ未来社会であると考 える人が根強く存在する。更に、学問の中では、自然科学的手 法が人間社会に適用されていない。と言う状況が存在している 。言い換えると、人間社会を哲学的に理解しょうとする考えが 、学者の間に蔓延している状況がある。この様な混沌とした状 況の中で、マルキスト、マテリアリスト(唯物論者)の活躍の 場が存在している状況がある。
私は日本社会が“感性文化”で有ると考えている。ヨー ロッパ文化は、基本的部面に誤りが或るとは言え、其の文化は 、自然観による“対話文化”から、其の視点は形而上学的リア リズム徹している。日本の“感性文化”にはリアリズムは基本 的には無い。
西欧的国家は能動的組織原則になっている。日本的国家 組織原則は受動的組織原則になっている。契約社会では、誰が どの様な決定権者か明確である。信頼の社会では、時間を掛け て意見を集約する組織形態になっている。常に、問題は外部か らもたらされ、其れに対応するのに時間を掛け全員一致の合意 を求めようとする。言わば、“和の社会“が生きて存在する。 しかも、リアリズムは存在しないので、対立する主張は基本的 部面から対立する事になる。言い換えると、賛成か反対かの二 者選択と成ってしまう。
日本共産党は、既にリアリズムを捨ててしまった。残っ たのは、“和の社会”の一員である、マルキスト的非リアリス ト集団であり、哲学的混沌を敷衍化している集団になっている 。
更に問題なのは、党綱領を除き論理を伏せ、政策宣伝に 重点を移している事だ。典型的プラグマチストであり、オポチ ニストである。更に、社会主義連帯と言う名目の元に、破綻し かかっている中国との連帯を進めている事だ。此れは、北朝鮮 とも中国共産党とを間に置いて、関係を持つ事に成ってしまっ ている。
レーニンの主張した帝国主義論は、明治日本の自立的富 国強兵策まで帝国主義として論じている。アジアは一つと論じ た岡倉天心や身を挺してロシアの南下に対応した人達まで侵略 主義者に仕立て上げてしまっている。当時の軍事力による領土 拡張競争を、現代的視点から判断して論じる事は、歴史的判断 とはかけ離れている。中国の辛亥革命の棟梁“孫文”さえ、満 州を漢民族の地とは考えていなかった。
現代の民主制を画したのは、第二次大戦会戦後の大西洋 上の会談に於いて、チャーチルが植民地政策を放棄した時に始 まっているし、フランス等大戦後までアルジェリア、ベトナム 等に出兵して、植民地政策の継続を行った。オランダも同じで あった。戦中までフィリピンはアメリカの植民地であった。ア メリカはその後現代に至るまで、力の政策を維持している。
私は日本に軍事力による政策を実行せよと考えてはいな い。平和国家に徹せよと考えている。自立せよとも考えている 。天皇制から天皇を文化的存在に移行させたいと考えている。 其のため、日本古代史の解明を行っている。
日本の混沌とした状態から、科学的リアリズムを取り入 れたいと考えている。其の前に立ちはだかっているのは、最大 の存在は日本共産党である。イデオロギー的学者は残るであろ うが、これも時間的問題として考えてゆく必要が有るだろう。 全学連、全共闘世代の落とし子なのだから。私と共に消えて行 く存在であろう。
共産党は単なる政党ではない。社会全体に誤った論理を 撒き散らす、“闘争集団”である。デモクリトス氏の様に都合 が悪くなれば口をつぐみ、忘れた頃に又論じ始める。注意せね ば成らないのは、甘い口車に乗ってはなら無いと言う事である 。平和や豊かさは誰かが持って来てはくれないのだという事で ある。