確かにギリシャ時代の発見には驚きが存在しています。アリ ストテレス、アルキメデス、ターレス等の事績が上げられてい ます。特にアルキメデスの“法則”は、現代では科学的“法則 ”として扱われています。しかし、“法則”と言う言葉は当時 のギリシャには無かった筈です。アルキメデスの記録を発見し た人によって、現代的科学的正しさが認められて“法則”と呼 ばれる様になった物と考えています。ギリシャ文化の自然観か ら自然を解明しようとする視点が生まれ、多くの説が生まれ出 たと考えています。
私はギリシャを含めてインドヨーロッパ語圏を“対話文化” と呼んでいます。(yahooブログ「感性文化」参照。)この文 化では論理学が発展しました。日本の様に“感性”によって支 えられた文化ではなく、言葉、論理によって支えられた文化が 、此のインドヨーロッパ文化です。記録が残る限り現代に通じ る発見を多く残しています。前記の人達も多くの例を上げ論証 したものと考えています。言い換えると、論理学の範疇です。 アルキメデスの論証も、多分、此れに含まれるものと考えてい ます。現代的装いをしていますが、論理学的論証の一種ではな かったかと思います。
“経験的知識”を科学的知識と考えると、科学は人間の段階 を超え、動物の段階まで含める事も可能です。無論、科学の育 たなかった日本にも、経験的知識は山と有ります。経験的論証 まで科学と呼ぶならデモクリトスさんの言うとおりでしょう。 私は論理学と科学とを切り離すべきだと考えています。経験的 論理学まで科学の範疇に入れれば、当然、哲学も科学の範疇に 入れざるを得なくなります。私は、此れでは科学を定義出来な くなる事が明らかですので、賛同しかねます。ギリシャの論理 学、インドの論理学には、現代的有用性は認めても、科学の定 義は近代科学に求めるべきだと思います。
又、“法則”と言う概念にも問題を感じています。キリスト 教の神の創造意思(神の法則)、科学法則と発展してきました 。詳しくは、同じくヤフーブログ「感性文化」をご一読願いま す。
更に、政治を科学で解けないかと言う問いですが、政治は個 人を基礎に対等な立場で論議され“決定”されねば成らないと 考えます。決定に誤りが有ろうともです。個人の自由は最低線 互いに守るべきであると考えます。政治的課題については、科 学的知識が大いに参考にすべきであると考えます。科学的に正 しくとも他人の考えを無視する事は、政治的システムには馴染 まないと考えます。民主制とはその様な性質を持って運営され て行くべきであると考えます。
この様な問題を解く為には、ヨーロッパに哲学や科学が発生 したにもかかわらず、何故、日本には科学や哲学が生まれなか ったかを、解明する事が重要な点だと思います。感性的経験で は、日本人もヨーロッパ人も同じ位置にいた筈です。問題を注 視して下さい。