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科学について―デモクリトスさんへ080229

2008/2/29 灯台守 60代 自営業

 デモクリトスさんの言われる通り、哲学にはドイツ風、イギリス風と言う趣の違いが有るのだとは思います。しかし、自然観を基礎に据えた哲学と言う範疇では同じ括りに入ります。Google言語ツールでは物理学をphysicsと有りました。ドイツ語では科学をwissenshaftとラテン語から訳されたようです。同じラテン語からscienceを取り入れたのに対して、ドイツ語では意訳されています。ヨーロッパは同じ言語圏でも歴史的違いが有ります。問題は“単語”の違いでは有りません。其の言葉に含まれる意味内容が問題なのです。ドイツのハイデッガーは「言葉についての対話」の中で、九鬼周三の「粋の構造」を取り上げ、ヨーロッパ“美学“は形而上的哲学であるのに対し、日本の”美意識“はヨーロッパの言語的家には含まれない事を指摘しています。つまり、日本の”美意識“は感性から発している事を別の言葉で言い表しています。日本の”自然観”は万葉集や徒然草の様に感性的に受け止めて来ました。ヨーロッパでは“自然観”を土台にした、感性を離れた理性(言語的論理)、分析的論理として発展して来ました。言語表現は“対話”的表現が原点にあります。Yahooブログ「感性文化」―科学的文明論―BIGLOVEブログ「混迷する科学」参照。

 既存の学問を土台に据えて理解しようとする点では、デモクリトスさんも人文学徒さんと同じ位置に有ると言えます。私は多くの哲学論を並べても、現代の知識的混乱は収拾出来ないのではないかと考えています。当初のブログ名を「提案者」としたのはその様な状況を打ち破りたいと考えたからでした。現在も変化は有りません。ブログ名を「感性文化」と改めたのは、別々の問題を一緒に論じる事で、問題点の焦点がボケてしまう事を避ける為に、部門を分けて別ブログとして分離したものです。

 さて、人文学徒さんは―科学主義とはどんな生活をされているのか―と言う問い掛けに、

自然観から発展した“哲学”と社会観から発展した“思想”(倫理観、人生哲学、共に個人の領域に属する。)を混同されてはいわしまいかという点を指摘しました。ドイツ風、イギリス風哲学の違いは問題では有りません。

 前回のデモクリトスさんへの回答的文書でも指摘したのですが、科学の定義をギリシャローマの経験的論理学まで遡らせると、科学と哲学との境目が曖昧に成り、“唯物論”まで科学と言う事に成りそうです。マルクス理論は科学の普及と言う点からすると、大きな役割を果たしたと思いますが、基本的論理に誤りが有ります。物質には本来“物理的性質と意識を含む性質”が内在していると考えて見ますと、唯物論と観念論の対立は生まれ様が有りません。やはり、マルクスは認識論を土台に考察している事が明らかです。此れに答えるには、私のBIGLOVEブログ「混迷する科学」―法則について―を見て頂ければ参考になると思います。現在の科学には決定論的要素が含まれて居ます。実世界は非決定論的世界に見えます。言い換えると、決定論は有限世界的であり、非決定論は無限世界を容認しています。其の辺りから我々の世界を理解して見る必要が有りそうです。

 科学的考察は日々進歩しています。世紀以前の論理を後生大事に保持して行くと、終には論理が宗教化して行く事は、仏教の展開に例を挙げる事が出来ます。マルクスの時代的役割を知りつつ、未来社会に思いを馳せる事は重要な事では有りませんか。

 最後にリケッチャーと言う、物質と生命の中間に有る物が有ります。一旦結晶化しても生命を失わないで蘇る“微生物?”についてです。中学の担任の先生から聞きました。63歳に成っても忘れていないのです。