イヌイット人(エスキモー人)は雪の呼び方が数十種類有る
そうだ。赤道直下の人は雪を知らないであろう。従って、雪の
呼び方は無かったであろう。
人類の文化は、其の住む地域の風土に規制されている。古い
時代から文化は交流して来たが、交流の無い地域も多く存在し
て来た。ダーウインの進化論は生物の進化のみに摘要されるも
のではない。人類の文化的進化にも適用できる筈だ。
現代の日本人なら可なり多くの人が文化の進化論的発展を支
持できる筈である。にも拘らず、学問の世界ではこの様な考え
方は一般的ではない。何故なのだろうか。
多くの日本人は支持するしないに係らず、マルクス哲学の“
史的唯物論”を知っている筈だ。“史的唯物論”人類文化を段
階を踏んで発展して来たと説明している。つまり発展段階論だ
。この様な文化論では、ヨーロッパ文化こそ普遍性が有ると説
いている様なものである。
残念ながら、この様な誤りはマルキストに留まらない。現代
文化観では、文化の普遍性と言う概念が一人歩きしている。ヨ
ーロッパ文化を普遍性文化と考えて疑わない人達が大勢を占め
ている。
自然科学の飛躍的進歩にも拘らず、人間社会に付いての科学
的解明は進んでいない。進んでいないと言うより、人間社会に
付いての科学的解明を不可能と考えている。問題点は一つある
。ヨーロッパ文化を普遍性的文化と考えている事である。
進化論的に理解すれば、其の地域文化は其の地域の特性に適 応して発展して来た筈だ。地球上、ヨーロッパ地域が特別では ない。ヨーロッパ文化も地域特性を以って発展して来た筈であ る。言い換えれば、ヨーロッパ文化も特殊化からは免れては居 ないと言う事である。ヨーロッパの特殊性は、自然科学に付い ての発展を促して来たが、人類社会の解明が出来ていない。其 の原因はヨーロッパ文化の特殊性に求める事が出来る。
其れでは、ヨーロッパ文化の特殊的発展とは、どの様な点を
指摘出来るであろうか。まず始めに“言語的特殊化”が見られ
る。其れはどう言う事かと言うと、ヨーロッパ諸言語では、“
実態”と“概念”を混同してしまうと言う“言語的特殊化”が
存在している。
具体的例を挙げてみる。最初に、“時空間”と言う概念であ
る。時空間と言う実態は存在していない。空間と言う広がりは
理解出来る。地球や太陽と言った実態は存在しても、座標軸的
に示した空間は仮定の問題であり実態ではない。時間に付いて
も同じで、太陽が中天に来てから、翌日太陽が中天に来た時を
一日と定めたのは人間であり、時間は人類文化の重要な文化で
ある。代数(t)で表示した時間はやはり仮定の問題である。
次に、哲学を挙げてみたい。世界的に見て哲学が発展した地
域は、古代文献的に見てインドヨーロッパ語族地域に集中して
いる。言い換えると、インドヨーロッパ諸言語に現れた“特性
”と考えられる。これ等の諸言語の特性では、言語が人間と人
間の“対話”を基本に据えた“対話言語”として発展した言語
である。日本語の特性では、自分自身の感じ方や判断、思考が
そのまま表現されると言う特性を持つ。インドヨーロッパ諸言
語では、感覚表現を“理性”(reason英語)と言う概念で抑制
し、相手を説得しようとする特性がある。従って、これ等の言
語では、事物のみではなく事象まで容易く名詞化出来る特性を
持っている。しかも、動詞や形容詞を名詞化して、実態と同じ
位置で話される為、実態と概念の区分けがし難いと言う特性が
存在する。
“理性”自体もとは動詞から転じて名詞化したものかもしれ
ない。人間の感覚的受け止め方から、一歩立ち止まり、思考す
ることを意味しているのかもしれない。言い方を変えるなら、
相手との関係上感性的に成らず、客観的論理性を以って話す事
を意味する事であろう。此処からヨーロッパ諸言語の“対話言
語”的発展が始まったのではなかろうか。
何故その様な発展をしたのかと言う点に付いては、ヨーロッ
パ人の源郷は、遊牧民ではなかろうかと言う点に付いては、yahoo
ブログ「感性文化」―科学的文明論―に於いて、多少触れて置
いた。もう少し細部、つまり、考古学的等科学的考察が必要で
あると言える。
インドやギリシャに起こった言語的“論理性”は、一つの言
語特性まで遡る文化特性であると思われる。其処には、実態と
概念を混同する文化特性が存在している。
マルキシズムに於ける“唯物論”は、此の言語特性から起き
ている問題であると言える。“唯物論”では、人間の持つ“意
思性”と“物質性”とを対立概念で取り上げているが、現代科
学では“生命、意思”は物質に内在しているものと理解した方
が合理的であろう。対立的概念で取り上げる事は、現代では非
科学的概念ではなかろうか。
自然科学が飛躍的進歩をしていながら、社会科学が科学的解
明から除外されている事は、ヨーロッパ文化の“文化特性”と
無縁ではない。先ず、科学と言う“概念”に問題点が有る。ヨ
ーロッパ文化の特性として、科学を“論理性”に重点が置かれ
ているのではなかろうか。科学の方法論の重要な点は“事実”
にある。確かめられた事実である。ヨーロッパ人の作り上げた
科学観には、実態と異なる“概念”が事実と同じ位置で扱われ
ている。更に、“法則”と言う概念にも問題がある。ヨーロッ
パ人が法則と言う時、伝統的にキリスト教的“神の意思”(神
が創り給うた世界=神の法則)と言う概念が浮かび上がる。此
の概念は“決定論”的世界観だと思う。現代の科学法則でも、
此の“決定論”的世界観が肯定されている様である。“法則”
では、実証結果が決まっていると考えられているのだから。
しかし、実態世界には、マクロ的ミクロ的世界が存在してお
り、例えば、地球、太陽と言う物体には広がりが有り、外延は
曖昧である。個体的地球、液体的地球、気体的地球、対流圏、
成層圏と言った広がりが存在しており、見方によって外延的地
球圏が曖昧に成る。人間的時間を越えて、宇宙的時間を考えて
みると、地球も太陽も常に変化をしており、ミクロ的電子的世
界でも同じ様な状態が考えられる。此処で言いたい事は、自然
の在り方は“非決定論”的世界ではなかろうかと言う事である
。“法則”と言っても其の実態は、“確率的”世界ではなかろ
うかと言う事である。自然界の実態は、座標軸的世界ではなく
、個々の物質は同じものは二つ無いと言う事を言いたいのであ
る。実証されている事実は“確率的”世界ではないであろうか
。科学的世界観を改める事で、自然科学的世界の“法則”には
、“確率的”実証が内在している事を認めれば、社会科学にも
“実証的方法論”の道は開けて来るのである。科学的未知は関
数(X)で表示すれば問題はない筈である。
現代の科学的混迷は、ヨーロッパ文化の“特殊化”された“ 文化特性”にこそ存在する。“論理”中心的思考方法。“決定 論的世界観”を改める事で、新たに社会科学が科学的解明の糸 口として、自然科学と対等に開ける事に成る。普遍性はヨーロ ッパ文化には無く、科学的世界にこそある。多くの科学者の批 判を頂きたい。多くの研究者の出現を望みたい。