中国外務省の泰剛副報道局長が3/20の定例記者会見で、以下の発言をした。
「暴力を容認したら法も人権もない」
「アナタの国で暴動が発生したらどうする。警察は何もしないのか ? 同じ処置 を講ずるはずだ」
この発言を聞いた時、まず思い浮かんだのが、益岡賢氏のホーム.ペ-ジの対 テロ戦争:致命的なフランチャイズと題するhttp://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/klein0308.html です。
これは、民族自決権をどのように考えるかの問題だと思います。
民族自決権の問題は、ローザ.ルクセンブルグとレーニンの最も大きな対立点
の一つだったはずだ。しかし、その後の歴史の中で、レーニンの主張した民族自
決権は、どのような 意味があったのだろうか。
「ここに現われた矛盾は、後に詳述するように、いかなる国においても政治生 活の民主的形態こそは事実上最高の価値をもつものであり、しかもそれが社会主 義の政治の不可欠の基礎をなすものである一方、名高い「民族自決権」はプチ. ブルジョアジーの空虚な空文句であり、たわごと以外の何ものでもないだけに、 ますます理解しがたいものだ。
実際、この権利は何を意味するというのであろうか ? 社会主義の政治があら ゆる種類の抑圧に対してと同様に、一民族の他民族に対する抑圧に対しても闘う ものであることは、社会主義政治のイロハである。
それにもかかわらず、レーニン、トロツキーとその同志たちのように、軍備撤 廃とか国際連盟とかというあらゆる種類のユートピア的な空文句に対しては、た だ皮肉に肩をすくめるだけであった普段はきわめて冷静で批判的な政治家たち が、今度はそれと全く同一の種類の空語をまさしく自分の方から振りかざすとい うことは、一種の便宜主義的政策に発したもののようにわれわれには思われる。 明らかに、レーニンと同志たちは、ロシア帝国領内の異民族を革命の側に、社会 主義プロレタリアートの側につなぎとめるには、革命と社会主義の名の下に、自 らの運命を決するこの上なく無制限な自由を彼らに保証する以外には、確かな方 策がないことを考慮したものであろう。(ロシア革命論 ローザ・ルクセンブル グ)
これに対して共産党はどのような対応をしているのだろう。
かつて共産党は旧ソ連によるチェコ侵略、アフガニスタン侵略などで、仮借な
い批判を加えてきた筈です。とりわけチェコ侵略の時などは、アメリカのベトナ
ム侵略の最中でもあり、大衆的な抗議集会を開いてもかまわないという指示が下
りてきたほどです。
それが新華社の配信と亡命政府の人権NGOからのインタビューを並列させてい
るだけです。
この違いは、共産党の「民族自決権」が一種の便宜主義的政策に過ぎないこと
を意味するのではないしょうか。
それとも、不破指導部の改良主義=社会民主主義的変質を意味するのだろう
か。私は、ローザの指摘した政治生活の民主的形態が確立されなかったことが、
その後のレーニン主義=コミンテルン型の共産主義運動が、人類の解放を目指し
ながら、人民を抑圧する結果しかもたらさなかったのではないかと思います。
レーニンとトロツキーは普通選挙によって選出された代議体の代わりにソ ヴェットを労働者大衆の唯一の真の代表機関であるとした。しかし、全国の政治 生活が抑圧されるのに応じて、ソヴェットの中の生活力もますます衰えていくに 違いない。普通選挙、無制限な出版、集会の自由、自由な論争がなければ、あら ゆる公的な制度の中の生活は萎え凋み、偽りの生活になり、そこには官僚制だけ が唯一の活動的要素として残ることになろう。公共の生活は次第に眠り込み、無 限のエネルギーと限りない理想主義をもった数十人の党指導者が指令し、統治 し、現実にはその中の十人位の傑出した首脳たちが指導して、労働者のエリート が指導者たちの演説に拍手を送り、提出された決議案を満場一致で承認するため に、時折会議に召集される、ということになろう。つまり要するに同族政治なの だ―独裁には違いないが、プロレタリアートの独裁ではなく、一握りの政治家た ちの独裁、つまり全くブルジョア的な意味での、ジャコバン支配のような意味で の独裁なのだ。そればかりではない。こういう状態は暗殺、人質の射殺等々と いった公的生活の野蛮化をもたらさずにはおかないであろう。これはいかなる党 派も免れることのできない強力な客観的な法則だ。(ローザ・ルクセンブルグ ロシア革命論)