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人文学人さんへ(生きるために必要な哲学)

2008/5/23 さつき

 私は、哲学をきちんと学んだことがないので耳学問ですらないレベルのものです から、どうか「呼応する義務」などとおっしゃらずにください。
 人文学人さんが書かれたように、人はまず生きており、生きて行かなければなら ない。『論理哲学論考』をまとめたウィトゲンシュタインが、後年、生きた言語 の謎に挑戦し続けた意味が少しわかった気がして、件の散文をまとめようと思い ました。現代が「科学主義」と「反科学主義」だけの世界へ向かっているように 思えて、私なりの危機意識も少しばかりの努力を後押しすることになりました。

 ポパーの功績の一つは、正統な証拠に基づいて論理的に正しく推論されたとして も間違った結論が導き出だされる可能性があることを示したことにあると思いま す。それはもちろん、「正統」だとか「正しい」だとかの判断を人がするものだ からです。ポパーは、この世界にあやふやな「科学」が満ちあふれていることを 知っていたからこそ、「科学」の唯一の美徳である「前進性」を失わせないため の方法論的な原理を抽出して示そうとしました。しかしポパーは、それが方法論 にすぎないことを自覚せずに、「科学」と「疑似科学」の線引きに使おうとした 。ラカトシュがポパーの学説を「方法論的反証主義」と呼んだのは、ポパーのそ うした無自覚的な勇み足に、弟子としてやんわりと「まった」をかけようとした のでしょう。あやふやな「科学」も「科学」として認めようとの視点に立てば、 当然、反証テストのあやふやさにも気付くことになり、ラカトシュの仕事はそこ から出発しました。このことはしかし、既にウィトゲンシュタインの『論理哲学 論考』の中に「同語反復」のナンセンスとして指摘されていたことです。ラカト シュの「精緻化された反証主義」が、結果的にウイーン学団の唱えた「論理実証 主義」に先祖帰りのように接近したのも故ある事だったと思います。

 こうして、一見、堂々回りのように見える哲学の歴史展開の中に、フッサールが 、後戻りを許さない一つの楔を打ち込んだのだと私は考えています。私は、科学 哲学界の中でのフッサールの位置付けを知りません。私が知る限り、数学者であ った故遠山啓さんの仕事に唯一フッサールの影響を感じとれます。私の哲学探究 はこころざし半ばで、十分にまとめきれていませんが、「マルクス主義」なり「 科学的社会主義」なりの理論を生きた現実と向き合わせるためには、やはり、そ れなりの哲学が必要なのだと考えています。

 ところで、人文学人さんのブログのURLは、既にどこかに紹介されているでしょう か? もしよろしかったら御紹介下さい。