とんびさんの疑問は、1993年の細川政権ができた時代の政治変化と今日の政治変化とはどこが違うのかということなのでしょう。細川、羽田政権だろうが政権交代をしきりに言う今の小沢民主党だろうが保守政権、保守党であり、大して変わりはないじゃないか、と言うわけです。そうした見解からすれば、原が書いている「今起こりつつある政治の変化を目にするような経験がここ30年ほどなかった」と言うのはおかしくないか、という疑問です。
左翼的な見解は共産党(jcp)中央も含めて、だいたいがとんびさんの言うような見解を取ってきました。だから、参議院選に惨敗したjcpが「新しい政治プロセス」がはじまったという見解を持つこと自体がおかしなことなのです。「同じ穴のムジナ」の自・民両党が政治の表舞台で昨日まで国民の目をくらます政治茶番劇をやってきたのに、参議院選が終わったとたん、突然、希望が持てそうな「新しい政治プロセス」がはじまるわけがありません。1993年当時は細川政権の成立をjcpは「自民党政治の継承」と見なし、「新しい政治プロセス」が始まったとは言わなかった。
そういうわけで、1993年当時と今回では何らかの大きな違いがあることを承認し、今回の政治変動に肯定的な何物かを認めることなしには「新しい政治プロセス」なる特徴づけをおこなえるものではありません。
そこで両者の違いを示す一指標をあげておきます。そうすれば、別物扱いするべきだという私の主張も理解してもらえるかもしれません。
総務省の家計調査によれば、1964年以降、『勤労者実収入』が減り始めたのは1998年からで、1997年の59.5万年(月平均)から98年の58.8万円、2004年の53万円となっています。一方、1989年のバブル崩壊があっても家計所得は増え続けており、1989年49.5万円、90年は52.1万円、93年は57万円、97年は59.5万円となっています。
1989年のバブル経済の崩壊後ただちに勤労者の実収入が減り始めたわけではありません。この事実が往々にして見落とされがちです。ここに示した数字が示唆することは、90年代前半の政治変化とは異なり今日の政治変化には広範な国民が登場してきているということです。
また、ご承知のように今日の各種社会保険料の負担増や増税、社会保障の切り下げの原因となっている政府債務(赤字国債)の増加を見ても、1991年の171兆円から2007年の674兆円へと約4倍増となっていることも、広範な国民が政治の場に登場することを促しています。
こういう違いがありますから、政治の表舞台では同じような顔ぶれが動き回っているように見えても、細川時代のように政界というコップの中の騒ぎ(政界再編)で政治を動かしていくわけにはいきません。その象徴的な例が小沢一郎の「生活が第一」という民主党の政策転換です。
この民主党の転換をマヌーバー(だまし)だと見る見解は一面的です。小沢民主党が権力闘争に勝利するには広範な国民の一票を集めなければならず、国民の要求をその政策に取り入れなければならないわけで、そこに小沢らに対する国民の登場の証し、国民の”しばり”が現れています。ここが15年前とは違うところです。
マヌーバーだと見る見解は小沢らの都合でその政策転換をいつでも捨てる(捨てられる)と認識していますが、もはや小沢らもそれほど国民から自由ではありえないのです。小沢の大連立騒動の顛末がその”しばり”をよく示しています。その政策を捨てれば、いっぺんに民主党支持者は離反するでしょう。
マヌーバー論者(jcp指導部も含まれるでしょう)は例外なく、政治の舞台への国民の本格的な(これまでとは違う)登場を見失っているか、権力者やマスコミの操作対象でしかない受動的な大衆観を抱いています。