共産党はいま上げ潮ムードのようである。新規入党が毎月1000人ほどあるというし、多喜二ブームも追い風になっているらしく、一般紙も取り上げるほどだ。ワーキングプアーや不安定雇用の問題、医療や年金など壊れてゆく社会保障の問題、拡大する格差や物価高など、国民の生活苦や先行き不安が怒りとなって自公政権に向かっている。小泉・竹中が始めた構造改革路線の歪が社会の隅々にまで矛盾と軋轢をもたらしていて、これも共産党への追い風なっている。
一方、不人気の福田政権だが民主党の攻めの拙さもあって、倒れそうでいてなかなか倒れない。与党が曲がりなりにも福田政権を支えていて、まだ見放すところまで至っていないからだ。今日の朝刊で内閣改造が取りざたされていたが、福田で総選挙が行われるか、それとも別の誰かによるかは今後の政局次第だ。もちろん選挙となれば、悪政の限りを尽くす自公に、今度こそ鉄槌を加えなければならない。こんな波乱の時期、共産党は先に6中総を開催し当面の選挙方針を固めたが・・・、さて。
本論に入る前に、本欄の常連の原 仙作氏に敬意を評しておきたい。私は原氏の共産党の政治路線に関する、シビアで厳密な批判論文をいつも感心しながら読まさせてもらっている。資料を緻密に分析し、その上で共産党路線を実証的に批判するのだから実に説得性がある。わたしのような不勉強者にとっては目を開かされる思いである。
テレビ討論等で共産党出演者の歯切れのいい主張を聞いていると、「成るほど。共産党はいいところを突くな。よく勉強しているな。」と感心したりする。だから5中総、6中総方針を、ただ漫然と読み流しただけでは、特段疑問に思うこともなく、なんとなくその通りみたいな気分になったりする。大方の一般党員は特にそうだろう。しかし、原氏の論文と突き合わせて読んでみると、方針の問題点が明らかになってくる。党中央から下部へ流される締め付けや叱咤激励が何を意味しているか、国民の願いと噛み合っているかどうかが浮き彫りになってくる。今回の6中総もそうだった。と言うよりも、私は5中総の参議院選の中途半端な総括から問題を引きずったまま、6中総に至って、いよいよなりふり構わぬ党利党略を鮮明に打ち出した、と思っているのだが。
ともあれ原氏と重複するけれども私なりの見解を述べてみたい。もちろん浅学非才の身では、原氏のように理論整然とはいかないことは分かっているが。
原氏も指摘しコテンパンに批判しているが、私も6中総を読んで特に引っかかったのは、志位氏が強調している次期総選挙への政治的構えの箇所だった。志位氏はここで「総選挙で問われる焦点は、政権の担い手の選択ではなくて、政治の中身の変革だ」と述べ、「共産党を伸ばしてこそ国民の利益にかなった政治の中身の変革の道が開ける」と言い切っている。我田引水はどの政党もあることだが、共産党の場合は単に修辞ではなくて、論理的に定式化し全党の指針として徹底するところが他の政党と違う。だから、ここで志位氏は、今度の総選挙は共産党の議席拡大が最優先で、政権交代に埋没してはならないと、全組織を締め付けているわけだ。
このように共産党は、政権交代は当面の目標ではないことを、予め鮮明にしたわけだが、しかし、この方針は、一方では自公政権を一日でも早く終わらせたい国民の願いと完全に衝突する可能性が強い。また共産党の一人踊りが始まった、と見られかねない危うさをはらんでいる。
さて、先の参議院選挙で与野党逆転しただけで国会運営がガラリと変わって、与党も単純に悪政を欲しいままに出来なくなった。いわゆる「ねじれ国会」の効用なのだが、自民党の慨嘆、嘆き節を見れば、参議院の与野党逆転はことの外、与党の足枷になっていることが分かる。つまり自民党が政治をどうにでも動かすことが簡単にできなくなったという点で、極めて好ましい政治的転換だったのだ。志位委員長は5中総で、「国民が自公政治に変わる新しい政治の中身を探求する新しい時代、新しい政治のプロセスが始まった」と述べたが、もっとも、評価はそこまで、この行方はまだ分からないとお茶をにごした。
ところが、マスコミも国民も大方の認識は、志位氏の言う「新しい政治のプロセス」の延長線上に、次期総選挙での与野党逆転、政権交代に繋がってゆくかどうか、あるいはどうやって政権交代へ繋げてゆくかが次期総選挙の最大の焦点と考えているのに対して、わざわざ志位氏は6中総で、政治の担い手の交代が焦点でない、それに政治的意味はないと明言したのだから、これほど国民の願いと遊離した認識はあるまい。この点を、原氏は微に入り細に入り徹底的に批判を加えている。私もまったく同感だ。
少々後戻りになるが、志位氏は先の5中総で参議院選挙の総括として、「共産党は負けたが与野党逆転は政治の転換点、明確な国民の意思の表れだ」として、潔く肯定的に評価するべきだったのだ。しかし口を濁してそれをしなかった。「新しい政治のプロセスが始まった」とは述べたが、その「新しい政治プロセス」の行方はまだ分からないと言っただけだった。だからだろう、共産党が与野党逆転に絡むこともできずに惨敗した原因を、自ら率直に抉り出すこともできなかった。「新しい政治のプロセスが始まった」が、それを肯定するでもなく否定するでもなく、共産党はただあいまいに藪の中に逃げ込んだだけだった。
ところが、6中総ではこれでは駄目だと思ったのか、歯切れよく党の独自性を鮮明にした。党員の求心力を強める目論見であろうか。総選挙の意義は「政権の担い手の交代ではない、政治の中身の変革を」と言い出したのだ。原氏も指摘しているように、志位氏は次期総選挙を「政権交代の現実的な可能性もはらむもとで」、と述べているところを見ると、実は本心ではそういった事態が起こる可能性があることを認めているのに、自らを政権交代の埒外に置こうとしているのだから、これはよほどの敗北主義以外の何物でもあるまい。
客観情勢は自公を追い詰めている。にもかかわらず下手を打って共産党が議席を減らしては元も子もない、と思っているのか。しかし、それでは一日も早く悪政を終わりにしてもらいたいと思う国民の願いに背を向けることではあるまいか。野党の背後へ回って矢を射掛けることと同然ではないのか。悪質な分裂行動と言われても仕方がないのだが、私に言わすと、前回の参議院選挙の二の舞になる可能性(つまり共産党の惨敗)もあり得ることを予測して、傷口を広げかねない危険なたたかいは避け、こつこつと確実に議席を一つでも拾う作戦に出たのではないか、と思ってしまうのだ。自公と対決と言ってはいるけれども、主戦は避け守りの選挙がねらいであることは明らかだ。
しかし政治のセオリーとしてここは乾坤一擲、政権交代と共産党の躍進を結びつけて、正々堂々と攻めの選挙をしなくて何が共産党なのか。
共産党のこの独特の倒錯した発想は原氏が詳しく分析しているところだが、気の毒なのは最前線で戦う一般党員だ。「今回の選挙の焦点は政権交代ではありません。政権与党が変わっても共産党が伸びなければ何も変わりません。だからぜひ共産党へ一票を。」と、党員や後援会員は有権者に説明して回るのだろうか。これで国民意識にピタッとくるだろうか。
原氏が言っているように、共産党だけが若干の議席をのばしても、政権交代がなければ自公の悪政にストップをかけることもできなければ、政策の変更もあり得ないことを考えれば、せっかくの政権交代のチャンスを遠い未来へ追いやって、自党の議席増だけをねらう共産党の我田引水に、今度こそ自公に痛い目に合わせてやろうと思っている有権者に通用するはずもあるまい。
6中総の選挙方針では、意図的に「与野党逆転、政権交代」を過小評価することに躍起になっている共産党だが、絶対多数の自公政権に飽き飽きしている国民は、自民党の議席を減らす最も効率のいい選択をするだろう。共産党が若干議席を伸ばしたとしても、自民党が多数を占めている限り何も変わらないことは自明の理であり、逆に野党の足並みを乱してでも自党の拡大しか念頭にない共産党に、心ある国民は嫌悪感を抱くに違いない。自公との見かけの対決ポーズは派手だが、その実、自党を大きくするためなら自民党政権の延命もかまわないと思っている共産党の姿を、国民は見抜くに違いないのだ。
政党である以上、選挙で自党を大きくすることは当然だとしても、独善的に党利党略を優先しているだけでは、何時までたっても国民の支持を得られないことを共産党は知るべきだ。
共産党への期待が大きいこの時期だからこそ、賢明な選挙方針でたたかいに臨むことを望みたいのだが、内部からの異論も批判も出ない、出させないような党では期待することすら虚しい。ともあれ、次期選挙では、自民党と政権を賭けて対峙する他の野党の足を引っ張ることなど、醜いことだけはしないよう共産党に望んでおきたい。
最後になりましたが、原 仙作氏の論文を全面的に支持し、次回の健筆を楽しみにしています。