09年当りに、中国共産党の党大会(中央委員会かも?)が開かれ、綱領的文書が書き換えられる可能性が囁かれています。私の間違いである可能性も有ります。其の程度に見て頂きたいのです。
此れは日本共産党に付いても同じ事が言えます。中心的課題は“科学的発展観”だと言われています。もし事実なら、不破哲三氏の“科学的社会主義”からの発展でしょう。
科学的社会主義の元は“マルクスレーニン主義”です。注目点はマルクスレーニン主義の内容を、どの程度脱ぎ捨てられるかでしょう。と言うより、当面は言葉の置き換えに終わる事が予想されます。
しかし、言葉の置き換えでも、将来に再度変更される事を前提にした含みを残せれば、其れはそれで大きな一歩にはなる筈です。
私としては、将来の科学に耐える党、国際資本家集団に対抗できる組織に、生まれ変われるか否かに、焦点を合わせて行きたいと思っています。
別の投稿分にて、既に独立化され組織化された中央銀行は、国境を越えて金融政策を行える様に成っています。大変危険な状況に成っています。
私は従来、大掴みに“進化論的歴史観”と言って来ました。この進化論的歴史観と言うのは、所謂、発展観とは異なります。人類が地球上に分散して行くのに対して、其の風土交通に適応した文化的発展と言う意味で、進化論的歴史観と言って来ました。言い換えれば、分化論でも有ります。つまり、マルクスの言う発展論は人類の発展を促す原動力としての発展観でした。自動車に於けるエンジンの様なものを意図していたようです。
私は、科学に付いても“非決定論的科学”を意図しています。従来の、神の法則、科学法則ではなく、“未知の部分を含んだ科学法則”(従来の法則に不明函数Xを常に付属させる。)を意図しています。大掴みに言えば、社会科学と自然科学を区別する事の必要性をなくした、科学を意図しています。
マルクス的に言うならば、科学を原点に据えた政治方針は、其のエンジンを人間の意志に置き換えて考えています。発展観は人間の意志に有ります。
哲学的思考方式を持っていると、この点に誤りを作り出します。政治的動力を法則的部分に求めたくなるのです。此れは誤りです。科学的には水素と酸素は人間の意志とは無関係に結合します。この力は化学的力ですが、政治を動かす力には成りません。
唯物論的思考では、誤って政治的“動力”(エンジン)と化学的結合では其の本質的に異なります。政治の基本は分子では無く、人間個々人が単位です。複雑系の個々人は其の複雑系の中に、化学的結合力を含みますが、未解明な部分を含んだ科学法則としての個々人の意思が、政治問題の基本に存在します。従って、政治問題の決定には個人の意思を、価値観の開放(個々人の自由な価値観)を前提に決定されなくては成らない筈です。
私の、非決定論的科学観はその様な問題を含んで解明されています。中国共産党、日本共産党が科学的社会主義、又は、科学的発展論、マルクス主義の発展論を、単に“科学的発展観”と置き換えて使うのであるなら、以上の点から綻びが入る筈です。
最も、其の点をもはしょって、承知の上で言葉の置き換えで当面を乗り切ろうと考えているとすれば、其れはそれで、其れも一つの政治的(不完全な)決定でしょう。不破氏周辺も読んでくれることを前提に書いてみました。
もし日本共産党に変化が無い場合は、私の勇み足と理解してください。決して書く事が無意味とは考えていません。何方かが読んで頂ければ無駄では無い筈です。