ネグリは次のように述べる。
このように、『要綱』を通じてわれわれは一つの運動に立ち会っているのである。その運動とは、理論を前方に送り出す運動である。その運動は我々の諸知覚を徐々に拘束していき、ついには、集合としての労働者と集合としての資本家との敵対関係という決定的な契機を把握させるに至るのである。この関係が恐慌(危機)として具体化される際の決定的な理論的通路(パッサージ)は次の二つである。第一に、『要綱』第一分冊において、剰余価値という形態において価値法則が定義された(すなわち剰余価値法則の最初の完成された定式化)ことである。第二に、『要綱』第二分冊において、搾取論(剰余価値法則)が資本の流通・再生産メカニズムの内部に拡張されたことである。このことは。搾取法則を、恐慌(危機)の法則とコミュニズムへの階級闘争の法則として再解釈することである。
これを読むと、私には、マルクスの革命理論はこれ以外にはあり得ないように思われる。かつて共産党を名乗っていたヨーロッパの多くの政党が雲散霧消状態にあるのは、多分、このような革命理論は間違っていたという自覚があるからであろうと思われる。ただ、ネグリの立場は、マルクスの理論は正しく、それを担いうる主体、つまりは真のコミュニスト政党が出現しないのだといことのようである。
さて、このような状況下にあって、日本共産党がマルクスを捨てずに、資本主義から社会主義へと唱えている根拠はどこにあるのだろうか。後で検証するが、それは間違いなく『資本論』であろう。『要綱』との関連における『資本論』へのネグリの批判は次のようなものである。
『資本論』第一巻で論じられる「賃金」は、資本の次元の一つでもあり、また、生産‐再生産の資本制的過程の原動力でもある。この問題に関しては、労働日削減をめぐる闘争について書かれた部分(『資本論』第一巻第五編「絶対的および相対的価値の生産」、第六編「労賃」)を、少なくとも次の三つの観点から検討することが本質的に重要である。その三つの観点とは、必要労働と剰余労働の弁証法、賃金の修正的機能、労働日の変更・規制という国家に直接関わる問題、である。『要綱』に見いだされるこの三つの観点は、議論の展開の中で、賃金の概念を規定している。この賃金概念が含む敵対的関係は労働者階級の概念へと波及していく。『要綱』において、労働者階級の概念はコミュニズムへの強い暗示であるとともに、資本にとっては危機と破局の概念なのである。『要綱』のプランにおいて明確に予告された賃金に関する章、そして『要綱』においては労働者階級と革命的主体(性)の概念と緊密に関連づけられた賃金の概念は、『資本論』第一巻の中に本当に保持されているのだろうか?
勿論、答えは否なのである。そして、「『資本論』におけるカテゴリーの客体化が、革命的主体の行動を阻害しているのである。」と結論づけられている。
恐慌のとば口とも言われる金融危機の中にあって、マルクスの予言のようにはことは進んでいない。そのような事態に直面して、これまでマルクスを信奉してきた、または、信奉を装ってきたコミュニスト達のとるべき道は二つしかない。一つは、マルクス理論は間違っているとして、それを捨てる道である。他は、マルクス理論は間違ってはいない、真のコミュニストとしてマルクス理論に賭けるべきである、という道である。しかし、私には、日本共産党は第三の道を模索しているように思える。それには『資本論』が重要な役割を果たすのである。次回は、それについて検討したい。