不破氏は『資本論』研究に没頭し、『エンゲルスと資本論』、『レーニンと資本論』、『マルクスと資本論』など多数の著作をものにしている。また、共産党は各地で「『資本論』学習会」を盛んに立ち上げている。当然のことながら、これは不破本の販売戦略の一環でもあるかも知れない。しかし、何も知らない人は、資本主義を打倒するための理論を鍛えていると思い、尊敬の念すら抱くかも知れない。『資本論』自体がそのような革命のテキストだと思っている人が多いからである。私とて、もし、ネグリの『マルクスを超えるマルクス』に接しなかったとすれば、そう考えたであろう。だが、これまで見てきたように、それは明らかに違うのである。厳密な意味では、マルクスの革命の理論は『資本論』には受け継がれてはいない。『資本論』は未完の書なのである。
このような学習会の参加者の感想文などを読んで見ると、いずれも判で押したように、「真実が分った」「確信が持てた」といった表現が多い。「科学の目」で「資本論」を読むとそうなるのであろうが。そして、これらのことはネグリの主張を裏付けるものでもある。
マルクスは「剰余価値」を発見したが、その革命理論は間違っていた。つまり、大部人の人間を苦しめるが、少数の人間にはよい思いをさせる特殊な病原菌を発見した。しかし、その正しい駆除法を提示できなかった。そう考えられないであろうか。
恐らく現在の資本主義社会で合意されていることは、そのような病原菌は駆除すべきではなく、共生可能なものだということであろう。かつてそのような駆除を試みた国があったが、かえって大きな副作用をもたらしたのである。
私は幼い特に、手が水いぼに悩まされた。信心深かった祖母は、あちらの薬師、こちらの神社と、祈祷へ連れて行ってくれた。そんなことで直るはずもないが、別に命に関る病気でもないし、要するに、私を精神的に安定させることが目的だったのではないかと今では思っている。
日本共産党のやり方もそれと類似したところがあるのではないだろうか。資本主義の賞味期限が切れたとは言っているが、それに代わるべきシステムについて何ら責任を持てるわけでもない。それどころか、資本主義の弊害なるものは、水いぼ程度のものと認識しているのではなかろうか。「『資本論』の学習」は、一種の祈祷であるかも知れない。要するに、祈祷料をとって、精神的安心を売っているのである。
以上、金融危機に触発されて書きました。不十分な点は多々ありますが、以後については、しばらく時間を下さい。