油井氏が川上氏の出版した「素描・1960年代」腹を立てる気持ちは、理解できる。また、私を含めて私の周囲の人もこの本に対する評価は、否定的だ。
しかし、油井氏の「実相」にも疑問を感じざるえない。油井氏は、「党員会議で、六中総の年齢制限を時期尚早とする異論を述べたが、私たちに路線問題はなかった」と書いているが、その前頁で「国会活動と、議会外の国民運動や大衆闘争をどれほど積極的に結合させているかはおくにしても、1970年より前から始まった人民的議会主義路線は現在も共産党の基本的な方針である」と書いている。
油井氏は、本当に年齢制限しか、異論はなかったのだろうか。もし、そうならば、なぜ、後段に引用した文章が出てくるのだろうか。
当時、青年運動や学生運動の活動家の会議や集会で、「共産党が日和ても、我々は最後まで闘う」「4・17問題の二の舞は、真っ平だ。」「闘わない政党は期待せず、青年だけで、まず大闘争を構築しよう」などという発言を何回か聞いた。
油井氏はおくとしてもなどと、無雑作に棚上げしているが「国会活動と議会外の国民運動や大衆闘争を積極的に結合させる問題]こそが、年齢制限と共に新日和見主義問題の大きな問題点だったのではないだろうか。
二本足の活動と言いながら、事実上組織拡大と選挙中心で、大衆闘争を軽視していた事、これこそが新日和見主義事件のもう一つの大きな原因だったのではないだろうか。
そして、これは次々と負の連鎖を作りあげていく。
まず、
1、「大衆闘争を積極的に」と主張していることは、共産党や民青の影響力が 強く、現実に大衆闘争を組織しているか、組織できる力があることを意味する。言い方を変えれば、この事件は共産党や民青のほとんどの拠点を 直撃した。
2、大衆闘争を組織している中心的活動家を直撃した。(会議や集会でいつも会っていた、活動家が何人も来なくなった)そして大衆闘争を組織できる有能な活動家を失い、大衆闘争を通じての共産党や民青の影響力が著しく後退した。
3、大衆闘争の中心を担っていた人が処分された結果、大衆闘争を引き継ぐ事や新たな闘争を組織する事を躊躇するようになった。
4、大衆闘争に対する躊躇は、クラス活動、部活動などを通じての同級生、先輩後輩、出身校など周囲との結び付き弱め、引継ぎや影響力を著しく 後退させた。その結果、新たな活動家を結集が困難になった。
5、要求闘争が行なわれず、拡大や選挙に活動が集中した結果、当局や他党派からの攻撃に対して「民主主義や集会結社の自由に対する攻撃」という主張が説得力を持たなくなり、「共産党や民青」と当局や他党派との争いと見做されるようになった。その結果、これらの攻撃に対し、大衆を結集しての反撃が困難になった。
以上、当時、新日和見主義事件に伴う問題点を列挙してみた。
そして、この事件は、60年代から70年代にかけて、築きあげてきた、要求に基づいて闘うという青年・学生運動の教訓・基盤・
成果・組織を全て否定する結果をもたらした。
その後、これに変わり得る新たな運動論が提起されたという話は聞かない。以下次回。