拙稿をお読み頂いて感謝に堪えません。ご丁寧な要約・解釈とご質問など もありがとうございました。これらへのお答えと追加などが僕自身にとってもと ても良い頭の整理になるとも思い立って、以下を書かせて頂きました。なお、熱 心にまとめていて、お返事が遅れたことを、初めにお詫びしておきます。
さて、僕らの話題の焦点は、上部構造の相対的独自性というところに絞ら れると思います。マルクス主義がどの点で現代先進社会にも合致し、どの点では 補足修正が必要かという重要なご質問も、実はこの上部構造の相対的独自性の解 釈、発展が中心になるのではないかと、僕は考えてきました。また、マルクスが ヘーゲルやそれまでの唯物論から学び、そこを抜け出した重要なポイントは「資 本論」でもなければ、「土台」などという狭い概念ではなかったとも僕は考えて きました。最も長く、大きな目で見れば、ここに至るマルクスの「方法論的導き の糸」の発見こそが大事なのであって、それは「ドイツイデオロギー」や「フォ イエルバッハ・テーゼ」にある「感性的人間的活動」だったのだと考えていま す。ソ連などがそう捉えなかったからこそあんなことになったというのが、真実 なのではないでしょうか。そんなことを考慮に入れながら、以下を書いていま す。
1 社会変革理解として貴方は窮乏革命論的筋道と、「知的目覚め」とをあ
げられました。これだけならば日本共産党の「実際」(口と実際は別ですから、
それを区別した積もりです)と変わりないと、僕は思うのです。その「実際」と
は、こういうものと理解して、今までにもここに書いてきたとおりです。「社会
経済的困難を捉えて、それを根元から分析し、その分析に基づいて教育、宣伝す
れば国会選挙で勝利できて、社会変革が出来ていく」というような「理論」だっ
たかと。
ここに何が足らないか。ズバリ、「生活改善の運動」が足らないと思います。
昔流に言えば、好きな言葉ではないですけど、「大衆運動」の相応の押さえが欠
けていると考えてきました。この点は、昔の大会決議案事前討論特集「赤旗評論
特集版」などでも、最大の中央批判の異論として民主集中制と並んで常にあげら
れてきたものでした。対して中央は結局、「大衆運動さえやっていれば良いとい
う誤った思想」というように、この批判に冷淡に対してきたと僕は捉えていま
す。厳しく言えば時に「大衆運動団体の重要性を軽視して、拡大や政治主義など
でこれを引き回してきた」かとも。こういう方針への批判者は逆に「拡大さえ
やっていれば良いという中央」と応対してきたのではなかったでしょうか。
70年代までの党の発展には、間違いなく無数の「大衆運動(団体)」の存在
が「前提的な」背景として存在していました。今の党の没落は、これらの団体の
「党的理論などによる没落」とともに、それに遅れてやってきたと僕は考えてい
ます。これが発展しないと、先進国の社会変革は起こっていかないのだと僕は考
えていますが、その説明をやってみましょう。
2 ある社会で、社会経済的窮乏が急に進んだとしましょう。人間はこれに
ついて感覚・知覚的な認識と言語的認識とを様々に持つはずです。
ヒットラー政権前夜のドイツを例に取ってみましょう。29年の大恐慌の直後だ
しして、窮乏は皆が感じ過ぎるほどに感じていたはずです。ところが、この感じ
の「階級闘争的」な二通りの認識・理解の分かれ道が、日本共産党が述べてきた
ようにはそんなに単純なものではなかったのではないでしょうか。当時のドイツ
共産党は強かったですが、2度の選挙でぽっと出のナチに大敗しました。そして
非合法にされたのです。これは戦前の日本も同じ事ですね。何が足らなかったの
でしょう。なぜ自分らの闘いが選挙に勝てるほどに効果を上げ得なかったので
しょうか。言語的な教育・宣伝だけではダメだったのだと思います。ヒットラー
のような「体制的急進主義」の言葉が人々の感覚に合致し、人々を捉えることも
おおいにありうると、もっと素直に認めねばならないはずです。80年代以降の
日本、世界の政治でも同じ事が言えるのではないでしょうか。こういう「逆行」
を素直に見られれば、否応なくこうなるのではないかと僕は考えます。
社会の隅々において様々な「まともな生活改善運動」が現実に成果を上げて、
そういう意味で多くの人々の中で「まともな明日が感じられていなければ」、教
育・宣伝つまり「正しい認識」などは入っていかないのだと思います。こういう
現に成果を上げている運動がなければ、「国家が変われば生活が変わる」などと
いう抽象的な言語論議をいくらやってみても、人々を逆方向にかすめ取られる場
合もおおいにあるということでしょう。要約してみます。
「窮乏とその『解明』・宣伝で社会が変わるわけではない。窮乏打開や人間の
その他の諸要求に基づいた様々な社会的実践を起こし、発展させていなければ、
人々をいくらでも体制(の言葉)に奪われることもある」
僕は、こういう考え方こそ、唯物論的なものだと思うのです。いくら長期間か
かっても、様々な生活改善運動が強大な陣地と人々への実際的信頼を築き上げて
いかなければ社会変革への感性は生まれないのではないでしょうか。それがない
ところでの「啓蒙活動」は人々にとっては単に言語的、抽象的なものでしかない
と、そう言いたいのです。人を言葉で獲得しようなど、できるわけはないものだ
と言い換えても良いでしょう。こんなことは、市井の知恵に属することです。ま
た、唯物論とは本来、こういう考え方のものではないでしょうか。
3 次に、マルクスの理論でもレーニンの理論でも通用しない部分は多いと
思います。現代先進国と彼らの時代とはあまりに違うとは、誰の目にも分かりま
す。ただし、こんな論議を広く展開する力は僕には当然ありませんので、ほんの
2~3の例をあげて、問題提起をしてみたいと思います。
レーニンがマルクス理論を「発展」させたと言われてきた部分はこうでした。
国家独占資本主義が生まれて、労働貴族が現れたと。つまり、資本が自由競争時
代から国家独占資本時代に入って、労働者を分裂させる余裕が生まれたというこ
とでしょう。そういう観点を使うならば、今の世の「労働者階級の変質」はレー
ニン時代の何十倍になったことでしょうか。「労働者が失うものは鎖以外にな
い」? 全くそんなことはありません。労働者というものをサラリーマンと定義
すれば、もう変質だらけですよ。サラリーマン重役になる望みさえもある。そう
いった「立身出世主義」も身分が無くなってからは現におおいに通用するように
なった。会社の株を持っている経済的中間層労働者の多さも、昔では考えられな
いものです。
さらに、こんな事も言えます。普通選挙では、労働者もそれ以外の人々も同じ
1票ですが、その意味だけを取れば変革における労働者階級の役割はずいぶん小
さくなったとも言えましょう。
4 さて、以上すべてをふまえて僕があえてこう言ったとしたら、皆さんど
う答えるでしょうか?
「とにかく左翼には生活改善運動は必要なのだが、それがなぜ、先ず労働者階
級の運動でなければならないのか」と。これに対して、「階級闘争というのはマ
ルクス主義思想の神髄である」というのではない、真に現代に説得的な答えがあ
るのでしょうか。さらに進めてこうも問うてみたいです。「窮乏改善以外の要求
もこれだけ多くなっているときに、労働者階級にこだわるのは、これこそ現代の
『土台還元主義』ではないか」とも。これをまた逆に語って「労働者階級にこだ
わりすぎることこそ、土台還元主義ではないか。窮乏以外の要求が見えてこない
ということではないか」とも。
人間が生きていかねばならないという意味で職場の問題が最も大きい社会問題
だということはその通りでしょう。しかし、そこでの闘いは、体制シフト、当局
サイド工作が非常に大きいこともあって、実りが少ないだけの啓蒙的闘いになり
がちです。社会主義的変革だけではなく、社会民主主義的闘いだとしてもまず国
家を通じて戦っていくのですから、普通選挙が確立された国では「労働者も、そ
れ以外も同じ1票」とどうして考えられないのでしょうか。
今日は、これだけにしておきます。