かつて一九六〇年代を終えて、混沌の一九七〇年を迎えた頃、ベトナム反戦運動や学生達の学園闘争は世界中を席巻し高まっていった。闘争の高まりは、国家の管理秩序維持の権力行使によってしだいに押さえ込まれ、ついには鎮圧された。
そんな季節の中で、一九七〇年、左翼系出版社として知られていた青木書店が季刊雑誌『現代と思想』を発刊した。編集長は江口十四一氏。読者欄に数回投書が掲載された。そのお礼に、当時まだ学生だった私は、卒業直前に一度、神田神保町の青木書店を訪ねた。誠実で温厚そうな風貌から、編集長自らとその季刊雑誌『現代と思想』の姿勢がなんとなく似ているように感じられた。一九七〇年から一九八〇年までの十年間、ちょうど四十巻におよぶこの季刊雑誌は、江口編集長の参謀格として、戦前戦後に岩波書店に関わりがあり、哲学者であり思想家でもあった人々、古在由重氏や吉野源三郎氏、粟田賢三氏などとの連携を基盤として推進されていった。
日本共産党と社会党とが共闘した革新統一戦線は、次々に全国に革新自治体を誕生させていった。国政でも、日本共産党は衆院で四十議席前後の議席を獲得して、国政における革新統一戦線政府は、現実的なものとして真剣に論じられた。そのような政治情勢と絡み合って、知識人や勤労者や学生たちへの思想的提言を、『現代と思想』は次々に提起して、応じ続けていった。
だが、鬼頭史郎判事補による当時の宮本顕治委員長の網走刑務所収監時の身分帳の違法なコピー持ち出しが行われた。その資料をもとにして国会では春日一幸民社党委員長が、国会での謀略的質問を行い、それをきっかけに共産党に対する集中的攻撃が行われた。それ以降共産党への風向きは大きく変わっていった。さらにその前から共産党内部でも、新日和見主義事件や知識人への締め付けが行われた。社共両党を含む革新統一戦線は、一転して冬の季節に入っていった。
その後の社会党・公明党の合意や、野党全般や全国労組ナショナルセンターの右傾化が強まる。共産党は、前衛党の主体性路線に傾き、そのことは多くの進歩派の知識人や労働者たちにも影響を及ぼしていった。
このような政治的情勢の流動化のなかでも、『現代と思想』は健闘していた。島国根性のセクト主義が強い日本の社会文化面で、時事的話題を党派に偏重しすぎずに、学問としては学際的に、哲学としては広範な哲学的立論を堅持し、思想としては、広範な民主主義勢力の統一戦線の基盤となるように編集され、出版され続けていった。
貴重な歴史的証言となる座談会もいくつも組織された。戦前の唯物論研究会をめぐる座談会では、戸坂潤が合法的なぎりぎりのラインでつくりあげた抵抗的研究活動があざやかだった。「来なかったのは軍艦だけ、」と言われた東宝争議、読売争議など戦後直後の労働運動のもりあがりは、新しい日本民主化を期待させるに十分であった。しかし、アメリカ占領軍司令部は、中国革命という世界的情勢の変化に即応する戦略に迫られるや、戦後日本の民主化に対して介入や鎮圧、弾圧を行うに至り、A級戦犯政治家のなし崩し的公人復活など歴史の「逆コース」化を積極的に進めていった。そのような戦後史にも果断のない斬り口で証言していった。そこには学者や歴史家ばかりでなく当時の運動家の参加も行われた。
「社会構成体論争」では、研究畑や理論的立場によって白熱する論争が続いた。平田清明氏や田口冨久氏、藤田勇氏、林直道氏、犬丸義一氏、嶋田豊氏らが活発に議論を展開した。
自由民権運動の清水紫琴をめぐる座談会では、息子である古在由重が、母親の家庭における様子を深い愛情で懐かしがっている。清水紫琴は、自由民権運動の活動家で平塚雷鳥などとともに活躍し健筆を奮った。有名な自由民権の闘士と恋愛し一子を設けるが、挫折して当時東大農学部の教師だった古在由直と結婚。幸せな家庭を築き上げ、家庭も円満だったけれど、二度と筆をふるうこともなく運動から退いた。そんな父母の様子をずうっと見守り、古在自身も官憲に逮捕され投獄される。「由重さん、歴史は個人が思っているほどにはそんなに急に進歩していかないものなのですよ。」と失意の由重氏を母は励ます。親の死亡の両方とも闘争と逃走、逮捕のために葬儀に出られず、母を思いやった古在氏は言う。
「父が悪いのではない、母が悪いのでもない。ただ時代が父母の苦しみをうんだ、」この言葉が私の心に今も残っている。
家永三郎教科書裁判をめぐる座談会では、家永三郎氏と古在由重氏とのやりとりが興味深い。私はこの文章を論文としてではなく、随想とて書いているので、あえて書棚に並べている四十巻全巻を取り出さず、三十年間ほど前に購読した雑誌を、記憶のみによってこうして書いている。長年を経ても鮮やかに思い出される。それだけ雑誌として深い衝撃があった。これだけの思想的迫力を読者にもたらし続けたのは、雑誌創刊運営に携わり続けたかたがたの並々ならぬ努力のたまものであると言えよう。
途中に戸坂潤賞が制定され、本賞は該当者がなくとも、尾関周二氏や二宮厚美氏などの研究者が佳作となって、その後に活躍されていった。「スターリン問題」が先入観なしに研究が深められ、闊達に論議されていった。加藤哲郎氏、藤井一行氏、中野徹三氏などその後もスターリン主義研究を継続深化させていった。
『現代と思想』は、一九八〇年に唐突に休刊となった。さまざまな事情があったのかもしれない。しかし詳細を知らないだけに、私のようなものには、知識人や出版社になんらかの抑制せざるを得ない、外部から介入があったのではないか、と思われてならなかった。憶測を記すが、「スターリン問題」の研究がさかんになるにつれて、日本共産党指導部内で強い懸念が生じていったのではあるまいか?当時者でない私にはわからないことであるが。その後、編集部にいた西山俊一氏は、季刊雑誌『窓』を発行する出版社である窓社を立ち上げ、『現代と思想』終末期の課題はじめリベラルな誌面を保障していった。
一九七〇年代の十年間の中でも、とりわけ次の二つの大事件に注目したい。ひとつは一九七四年のベトナム戦争の完全勝利達成である。もうひとつは、韓国の大統領候補金大中氏が韓国での弾圧を避けて、国外から平和運動を続けている最中に東京のホテルから韓国中央情報部とそれを援助した日本国内のなんらかの組織によって拉致され、海を経由して監禁されて韓国の自宅に戻された、いわゆる金大中事件の発生である。
のちに金大中事件は、映画『KT』(監督阪本順治)として日本国内で映画化されている。映画では、韓国中央情報部KCIAに自衛隊の特殊部隊が関わっている。金大中氏拉致に関わったKCIA部員は帰国後に処分を受けている。映画では、それに関連して手助けした自衛隊特殊部隊の隊員を、佐藤浩市が熱演している。日本海の船中で暗殺されかかったが、アメリカ政府の強い要請に基づいて、ヘリコプターを使った中止勧告で金大中氏は危うく暗殺を免れる。
この時、日本政府は、韓国政府の外交官で大使館の一等書記官の犯行によるものと公式に声明を出した。日本政府は、韓国CIAだけでは絶対に犯行を成功し得ないし、背景に日本のなんらかの警察力の一部が関わっていたのではないか、という世論を無視しておしきった。
しかし、日本共産党は自衛隊内部にある秘密部隊の存在をしんぶん赤旗紙上で連載であばきたてた。政府の態度は変わらなかった。けれど、後に北朝鮮による日本人の拉致問題が大きく社会問題化したときに、拉致問題の多発は、金大中事件で日本が国家としての主権を韓国に異議申し立てしないまますましたことと関連しているという論調が今日的になされている。北朝鮮は、日本政府はかりに不当な拉致問題が発生しても、公的にそれに主権の回復を主張することはないと見限っている、という主張である。
その金大中氏が今年多臓器不全でご逝去された。韓国国民は、「韓国民主化革命」の偉大なリーダーだった金氏の死を追悼した。若くして大統領候補となりながら、何度として獄中にとざされ、死刑判決をうけてきた。パク・チョンヒ大統領が暗殺されて、大統領になる直前にも光州事態の責任者として死刑を言い渡された。そうしてやっと大統領選挙に当選した。金大中氏は、韓国民主革命の指導者である。
金大中氏が果たそうとしたことは、日本によって侵略された過去の朝鮮の国家主権の問題であるし、現代も韓国の民主化を妨げる障壁である日本財界・軍部、支配層の目論見を打破して、民主革命を樹立することだった。民主主義の実現によって、北朝鮮と統一することでもあった。その何割かは実現した。残りの部分は、日本人が日本において日本国家に働きかけることで達成されるし、達成されねばならぬ課題である。前衆議院議長河野洋平氏は、金大中の死を追悼しながら、金氏の日韓文化交流をはじめ、氏の仕事に理解を示すとともに、金氏は口に出さなかったけれども、日本人の政治責任の実行に言い及び金氏の遺志を伝えた。現在の自民党の中でも良質の政治家の一人であろう。
ベトナム戦争は終わった。だが今日、生物化学兵器によるベトナムの国土と民衆への被害は計り知れないものがある。それは、イランやイラクを経てアフガンへ増兵しているオバマ大統領の外交政策がアメリカ巨大資本の側に利益を保障するものなのか、世界中の民衆に平和を保障するものなのかの正念場である。オバマ大統領の核兵器廃絶のスピーチは心を撃つものがある。日本共産党志位委員長をして、手紙を出させるほどの画期的な提案である。だが、イラクで使った劣化ウラン弾は核兵器ではないとオバマ大統領はとらえているのか?ベトナムを侵略したアメリカ政府は、アフガンをどのように考えているのだろうか?
今日の歴史的課題と一九七〇年代は、強く連なっている。