1、「赤旗」が掲載する特集記事
10月3日の「赤旗」には見開き二面の全面にわたって特集記事が組まれている。一瞬、60年代の「赤旗」のコピーでも載ったのかと錯覚したほどであった。飛鳥田・元社会党委員長の写真やら石油ショックに便乗してボロ儲けを策した大企業の面々が国会に招致されている白黒写真が張られている。紙面の上部に目をやると、紙幅いっぱいに大文字が躍っており、「歴史を動かした共産党と国民」とある。
内容を読んでみると、党創立87周年記念の志位講演(9月9日)の内容に即して戦後日本政治史の出来事を拾い上げ、そこに志位講演の発言を添えたものであった。戦後政治史を概観し、そこで共産党(jcp)が主要な役割を果たしてきたと主張する志位講演は「科学的」で正しいものだと、特集は言いたいのであろう。
2、特集記事が組まれた党内事情は?
党創立記念講演の内容を「赤旗」が大々的な特集まで組み、歴史資料まで添えてフォローするような例を見た記憶がない。思うに、党指導部には一種の危機感があるのであろう。たぶんそれは、鳩山政権の発足が決まってから、八ツ場ダムの建設中止などの新政権の動きをはじめとして、いろいろなところに政治が変化する兆候がでてきて、「赤旗」に寄せられる投稿や記事にまで現れてきたことと関係しているのであろう。
実感としての政治の変化が党員にも感じられるようになると、執行部が困ることは、「同じ穴のムジナ」論を唱えて民主党政権になっても政治は変わらないと長く主張してきたことである。あれこれ言いくるめようとしても事実は頑固なものであるから、志位の講演の主張も一般党員の間では説得力を持てなくなってくるのである。
政権交代しても政治は変わらない、意味がない、民主党にだまされているのだと言ってきて、政権交代が実現するや、この新しい政治情勢はjcpのたたかいがつくり出したと言うのでは、いかに理屈に鈍感な党員でも”変だ”と思うであろう。そこで、志位講演の正しさを演出する大々的な特集が必要になったのだと推測するのである。
3、志位講演の特徴は「自党中心史観」
特集記事は、jcpが中心となって日本の政治を動かしてきたという編集になっているのだが、しかし、「赤旗」編集部には頭を冷やして考えてもらいたいものである。70年代に大企業のお偉方を国会に参考人として招致したことが画期的政治の変化であるなら、政権交代しても政治は変わらないと主張してきた志位らの数々の演説はどういうことになるのだろうか? 政権交代は、大企業幹部を国会に参考人招致すること以下の小事件であるのか? ダブル・スタンダードどころではないであろう。jcpのやることはすべて”白”、それ以外はすべて”黒”と区分けする世間離れしたjcp流の理屈がなければできない評価の仕方である。
自分好みの政治のエピソードを拾い集めただけの志位の戦後日本政治史は、”自己チュー”史観そのものであって、これがjcpの「科学的社会主義」だと言うのであれば、もう、この「科学的社会主義」は変形した”金型”のようなものだから、廃棄処分にしてしまった方がいいと忠告したくなるほどである。
4、70年代は革新自治体の興隆が特徴
志位講演がいかに”自党中心史観”であるかは、この特集記事からもわかる。たとえば、70年代の政治史の最大の特徴は、東京をはじめとして大都市圏を総なめにした『革新自治体』の興隆であり、75年には人口4700万人(当時の総人口の43%)を擁する地域に広がったが、それは年表として記載されているだけで記事として取り上げられていない。
代わりに取り上げられているのは、jcpが1972年に総選挙で38議席(革新共同の1議席を含めれば39議席)に躍進したこととか、石油ショックで価格つり上げを画策した大企業幹部の参考人招致にjcpが活躍したとか、ロッキード事件でjcpがアメリカへ調査団を派遣したという当時の政治史の一コマである。
jcpの38議席への躍進は、共産党員には天地を揺るがす大事件に感じられたであろうが、客観的にみれば、38/491議席にすぎず、自民党は271議席を獲得し単独過半数の地位は揺らいでいないのである。まだ自民党は党を二分して「角福戦争」をやる力があり、石油ショックで低成長へと転換したとはいえ一段の経済成長を遂げ日米貿易摩擦の80年代へと突き進む時代である。
5、60~70年代のjcpの議席と革新自治体の関係
50年代後半からのjcpの議席推移を見ると、58年総選挙=1議席、60年=2議席、63年=5議席、67年1月=5議席、67年4月、美濃部革新都政誕生、69年=14議席、71年4月、美濃部再選、大阪に黒田革新府政誕生、72年=38議席、という流れになる。
この流れから見ればわかるように、jcpの議席推移だけを見れば38議席は大躍進であるが、他方では、jcpの5議席から14議席、38議席への躍進より革新都政の誕生が先行しているという事実である。この事実は38議席に躍進したjcpが革新自治体誕生の流れをつくり出したのではなく、社会党(67年=140議席)が中心になりその流れをつくり出し、jcpは社共共闘を媒介にしてその流れに乗って躍進してきたということである。だから、どうみても70年代の政治史の中心にjcpの38議席をすえるわけにはいかないのである。
その後のjcpの議席数をみても、76年総選挙の「共産党・革新共同」19議席、79年は同41議席、80年同29議席という具合に議席数が安定しないのである。
6、90年代は冷戦体制の崩壊が忘れられている
もうひとつの”自党中心史観”の例を見てみよう。志位講演による90年代をみると、そこではjcp締め出しのための二大政党制の持ち込みという話になる。jcpつぶしをねらって、「支配勢力」は新たな策動として二大政党制をつくり出そうとしたと言うのであるから、細川の日本新党の誕生や自民党を飛び出した鳩山の「さきがけ」や小沢の「新生党」結成などの動きもすべて「支配勢力」の”さしがね”だという把握になる。
しかし、志位講演や特集記事が忘れていることは、冷戦体制の崩壊という世界史的出来事である。特集記事でも志位講演でも一言も触れられていない。イタリアやフランスを例に挙げるまでもなく、この出来事の影響を受けてヨーロッパの先進各国の政治状況は大きく変わったのであるが、志位講演では、新党の合従連衡の動きはすべて「支配勢力」の画策する国内要因だけで説明される。海外では共産主義の脅威がなくなったことが政治変動の大きな要因となったが、日本では逆に、共産党の脅威に対する対策が原因で政界再編が始まっていることになる。
7、共産党は政界再編の3年前からつぶれはじめている
議席数でみると、83年総選挙の共産党・革新共同の議席27議席、86年=27議席、90年=16議席(革新共同消滅)となっており、政界再編の開幕となる1993年の細川連立政権誕生の3年も前に、すでに事実としてjcpはつぶれ始めている。89年から実施された消費税もjcpには追い風にならず、89年の天安門事件と東欧社会主義国崩壊の影響が大きい。この事実一つ見ても、jcp締め出し対策としての二大政党制策動という志位の主張はjcpの存在を針小棒大に評価する”誇大妄想”と言うしかないのである。
世は階級闘争の世界だから、政治対決の一方の雄は常にjcpでまちがいはない、と”信仰箇条”にかじりついて政治史の主要な事実を無視するからである。 世は階級闘争の世界だからといって、かならずしも現実にjcpが一方の雄になるとはかぎらない。遠い将来に雄となるかもしれない(?)が、実際に弱小であれば、現実にはほとんど無視されることになるという簡単なことが志位らにはどうしても理解できないようなのである。常識からすれば実に奇異なことである。こうなると、志位講演は”自党中心史観”から冷戦体制の崩壊を経て、”自分党中心史観”に変態していると言えるようだ。
8、平野貞夫の「平成政治20年史」では
ここ20年の日本政治史について、小沢の懐刀と言われた平野貞夫が書いた著作に「平成政治20年史」(幻冬舎新書2008年)がある。政界再編の中心にいて事態の展開に長く能動的に関わった人間だけが書ける平成政治史の好著となっている。伊藤昌哉の「実録・自民党戦国史」をコンパクトにした平成版とも言えようが、大きな違いは伊藤の場合は政治家の人間模様に一つの力点があるのに対し、平野のそれは政治理念を巡るものになっていることである。この相違は重要で、60~70年代はまだ自民党が”国家”であり、自民党の党内闘争が政治闘争の中心であったのに対し、平野の場合は文字どおり政界全体を巻き込んだ再編が対象であり、そこでは自ずから政策の違いや国家像の違いが問題になるからである。
読めばわかるが、平野の著書の中には共産党の脅威やその対策とかいうことはおろか、まったくjcpの存在が視野に入ってこないのである。それこそ一行もjcpについての記述がないと言ってもいいほどである。これは、平野の著作の欠陥ではなく、ここ20年の政界再編がjcpの二大政党制論とは異なって、実際にはjcpの存在とはほとんど無関係に進行したことを示す一例である。
9、党員ではなく一般市民にむけて語れ
しかし、何とも愚かしい特集記事を組んだものである。つくづく思うことは、志位講演にしろ「赤旗」の特集記事にしろ、その視野に入れているのは党員と固い支持者だけだということである。自分のテリトリーに”エサ”を蒔いているという感触がある。
広く国民に訴える説得力をどう工夫するかという努力も見えなければ、主張に客観性を持たせようとする苦労の跡も見られない。要するに”志位”的な編集なのである。
これでは、一度はjcpと関わったものの、その後、何らかの批判的理由でjcpから離れたおそらくは数十万(07参議院選でjcpから他党に流れた支持者20%=50万票が一指標となる)にもなる政治意識の高い元党員・支持者には逆効果で、愛想を尽かされるばかりであろう。
志位ら指導部は、この元党員・支持者層を”攻略”できなければ、500万票を越えて広く国民からの一票を集められないと知るべきである。というのは、この層は一般社会の空気と常識を知り、かつjcpへの一定の理解もある層だからである。彼らが身近に政治的影響力を及ぼす範囲が一人平均5名と見ても、約250万票がこの元支持者層の背後にいるという想像力程度は持つべきであろう。
しかも、ネットワーク社会になると彼らの存在は孤立して埋もれてしまわないために、その存在感は非常に大きなものになる。インターネットが本格的に普及し始めて10年になるが、その時期と国政におけるjcpの連戦連敗の時期とが重なっていることを指摘しておくことも無駄ではないであろう。
10、詐術を使って、「赤旗」読者をだましてはいけない
私も志位講演を馬鹿げた”自党中心史観”と批判したのだが、その批判で取り上げた志位のいくつかの発言が、特集の最初と最後に掲載されているところを見ると、「さざ波通信」が相変わらず党中央の”ウオッチ”の対象であり、相応の影響を与えているように見えるのである。けっこうなことである。このサイトに投稿されるいろいろな意見を真摯に検討してほしいものである。
そこでjcp中央への”おみやげ”として、特集で取り上げている志位発言に関し、意図的な詐術がおこなわれていることを指摘しておこう。今では「赤旗」編集部まで不破哲三流の”テクニック”を使うようになったようだ。
特集で取り上げる志位発言は、四角い枠で囲った発言が12個あり、その基調は、共産党のたたかいで政治の何がどうなったかという説明である。そこで、特集が取り上げる四角い枠で囲った発言のうち、”最後から二番目”の志位発言を読んでいただこう。
「『自公政権を終わらせよう』と打ち出したことにともなって、民主党の政策には、従来の『悪政の競い合い』の側面とともに、国民の要求を部分的に反映した政策という側面も生まれました。」
11、これでは志位ら指導部のモラル・ハザードではないか(1)
おそらく、「赤旗」の読者は、jcpが「自公政権を終わらせよう」と「打ち出した」ことによって、民主党も「国民の要求を部分的に反映した政策」を出すようになったのだと解釈するであろう。皆さんはどうであろうか?
しかし、この解釈では事実に反することになる。 小沢民主党が「国民の生活が第一」と言って庶民要求をかなり取り上げ始めたのは2007年の参議院選からであり、jcpが「自公政権を終わらせよう」、「自公政権の退場」と言い始めたのは2009年7月の都議選の惨敗後だからである。
だから、この解釈は間違いであるか、あるいは、この解釈どおりの意味で編集部が掲載したのであれば、志位がウソをついていることになるわけである。
ところが、志位講演の本文を読むと、「自公政権を終わらせよう」と呼びかけた主体はjcpではなく民主党なのである。これならば、あからさまなウソはない。どういうことかと言えば、編集部のねらいは、jcpのたたかいで民主党の政策が国民の要求を反映しはじめた、と読者に読んでもらいたいのである。そのように読んでもらうと、最後の引用文=「こうした歴史の流れにてらしても、今回の選挙でのわが党の善戦・健闘が、どんなに大きな歴史的意義を持つかを、私は・・・強調したい。」という文章が生きるのである。
そのために、志位の発言をその前後の文脈から切り離して、主語を省略し、jcpが主体と読めるように”編集”をしたのである。
12、これでは志位ら指導部のモラル・ハザードではないか(2)
特集で取り上げたこの志位発言はウソではないかと読者が批判すれば、「自公政権を終わらせよう」と「打ち出した」主体をjcpだと解釈したのはあなたの勝手読みです、という逃げ口上も用意されているという寸法である。
ところで、編集部はさらに、私のような解釈・批判は誤解で、引用の仕方が不十分であったのは意図せざる結果だと言うことも可能である。それほど特集の編集は手がこんでいる。
それでは、もうひとつ聞くが、特集のはじめは「いわゆる『55年体制』の成立」とあるが、そこで冒頭から小沢一郎の証言を持ち出し「すべては自民・社会の『談合』によって決まってきた。」(『小沢主義』)と引用すれば、誰でも「55年体制」成立当初から自・社の「談合」が始まっていたと思うであろう。
しかし、小沢のこの文章は日本政治史の問題として語られているものではない。「もともと日本は伝統的に『コンセンサス社会』の風土を持っている。」(「小沢主義」60ページ)という文脈の中で、「コンセンサス社会」の一例として語られているものであるから、「55年体制」成立当初から自社「談合」が行われていたと小沢が主張しているわけではないのである。それに小沢自身が父の死を受けて国会議員になったのは1969年であるから、代議士になる14年前のことまで経験して知っているというようなことを言うわけもない。
13、これでは志位ら指導部のモラル・ハザードではないか(3)
前掲の平野貞夫は、「昭和三十年代は、社会党も本気で政権交代を考えていた。昭和四十年代に入って、日本が高度経済成長を成功させると、社会党は本気で政権交代させる政治を行わなくなった。」(「日本の議会政治の反省(5)」と言っている。これが自社「談合政治」についての通説的理解であろう。
小沢の文章を冒頭に掲載することで編集部は、①、今は消えさったとはいえ社会党をその誕生から「談合」屋だとする、事実を歪曲する誹謗中傷を行っていることになり、②、小沢の主張の主旨もねじ曲げて引用し、小沢が言ってもいないことまで小沢が言っているかのように読者に思わせようとしている。③、社会党をはじめから「談合」屋に仕立ててしまえば、一方では当時の野党第一党を”ふしだら”な存在とすることができ、他方では”頼りになる”jcpの存在を浮き立たせ日本の政治を動かす推進力となってきたjcpnというイメージを特集の冒頭から振りまくことができるというわけである。
こういうわけで、特集の編集は二重三重に”作為的”なのである。ここに志位ら指導部の危機感が表れている。そして、私が深刻だと思うのは、こうした詐術を特集を組んでまで実行する志位ら指導者のモラル・ハザードの問題である。