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一般投稿欄

第25回党大会決議(案)と志位の”お馬鹿な”憲法解釈論

2009/12/19 原仙作

1、共産党(jcp)は来年の1月に第25回党大会を開くのであるが、その決議案が「赤旗」紙上(11月28日)で発表されている。その全体の議論は、”党の値打ちが光る”自画自賛を含めて、アレコレ言って議席を減らしてきた当時の主張とその微修正の繰り返しで新味と言うべきものはまるでない。
 強いて取り上げるとすれば、民主党を政権へと押し上げた国民の運動を、”誤っている、だまされるな”と叫んで批判していたものを「国民の探求の過程、認識の発展の過程」と肯定的にとらえ直したことくらいである。この修正は何度も選挙に敗北したあげくにマルクス主義のイロハに立ち戻ったという程度の修正なのであるが、修正前の主張や政権交代の妨害者になってきたことへの反省は相変わらず皆無である。相も変わらず回生への契機がつかめていない。党大会後のjcpの帰趨はすでに明らかであると言うしかない。

2、しかし、志位に言わせると、その決議案は「表面の現象を追いかけるのではなくて、・・・表面の現象の根底にある『事の本質』を端的に明らかにするようにし」たものだという。その言や良しであるが、では、民主党政権とは何であるか?

 「この政権の行方は不確定です。それは政権の担い手自身もわからないぐらい不確定の要素が大きいのが実情です。」(志位「大会決議案の特徴について」、「赤旗」11月29日) 

 「事の本質を端的に明らかにする」と宣言しながら、これでは困ったものである。大会決議も羊頭狗肉のようなものということになるようだ。

3、「担い手自身がわからない」のではなくて、志位らがわからないのであろう。鳩山らが自民党を離れてから16年、新党作りと政権をめざすその歳月の中で、右往左往の日々の繰り返しで、どんな政治ビジョンもなく保守の出自が指示する本能のままにやってきて、いつの間にか政権へとたどり着いたとは考えにくい。おそらくは志位らが「わからない」以上に、鳩山らはわかっている(大まかな政治ビジョンはある)と見た方が良い。温室効果ガス25%削減や郵政株の売却凍結法の成立や普天間基地移転問題を巡るジグザグにみえる動きも前政権とは異なる方向へ向けた動きである。

4、志位らは根本的解決策ではないと言って鳩山政権の動きを過小評価しがちであるが、”一害を除く”のもりっぱに政治の仕事として評価するすべを学ばなければならないだろう。他党には根本的解決策がない、自党は口先程度の仕事で”党の値打ちが光っている”では、いつまでも国民の評価はあがらないと知るべきである。
 ともあれ、志位らが「この政権の行方は不確定です。」と言うようになったのは、都議選の惨敗と新政権の3ヵ月が教えた一つの進歩であって、6月の8中総がいう「『二大政党』の競い合いによる暗黒政治への逆行」なる愚劣な規定よりはましである。現実に押されてjcp特有の政治図式のサングラスをこっそりはずして眺めてみると、志位らはわからなくなったのである。

5、 しかし、ここでも指摘しておきたいのは、志位らの”心根”にあるものである。中国の習近平と天皇との会見をめぐる問題で志位が”お馬鹿な”政権批判(『赤旗」12月16日)をやっている。付け焼き刃の憲法論丸出しで党内の専門家を交えて検討した形跡がなく恥をかくのがオチであろう。
 外国の賓客との会見申し込みは30日前にという宮内庁ルールを破って、習近平と天皇の会見を政権が要請したのは天皇の政治利用にあたると志位は批判している。志位の憲法解釈では「海外の賓客と天皇が会見するのは、憲法で規定された内閣の助言と承認を必要とする国事行為ではない」。「国事行為以外の公的行為」なのであって、「こういう・・・公的行為については、政治的性格を与えてはならないというのが憲法のさだめるところ」で、「今回は、日本政府がその問題に関与することによって政治的性格を与えてしまった。」と批判するのである。これでは憲法学者に嗤われるであろう。

6、 私は憲法の専門家ではないが、直感的に志位の主張が誤りだとわかる。こう反問してみればいい。では、次期国家主席と目される習近平の会見要望を受けるかどうかを誰が判断するのか? 天皇自身か、それとも宮内庁か? それとも誰か? 時の内閣しかないであろう。「日本政府がその問題に関与」せざるを得ない種類の問題なのである。
 天皇の国事行為以外の「公的行為」に植樹祭などへの出席があるが、志位は習近平との会見も植樹祭並のものとして扱わなければ政治利用だと言っているに等しい。

7、 憲法解釈では、およそ二通りの解釈があるようだ。わかりやすい方からいくと、外国の政府要人との会見は『親善外交』として憲法第7条に規定する国事行為の「十 儀式をおこなうこと」にあたると解釈する。だから、当然、「内閣の助言と承認」が必要になる。
 もうひとつは、『親善外交』は象徴としての天皇の地位にもとづくものであって、憲法7条が規定する国事行為以外の「公的行為」である。ここまでは志位の言うとおりだが、その後が違う。『親善外交』という「公的行為」も国事行為に準ずるものとして「内閣の助言と承認」が及ぶと解釈されている。だから、どちらを採ろうが「内閣の助言と承認」が必要なのである。
 というわけで、あの会見は内閣の助言と承認が必要な『親善外交』で、鳩山政権が要請して何の問題もなく、政治利用に当たらないというべきである。会見日程が決定された後になって、宮内庁長官・羽毛田が公然と30日ルールに従えと内閣に要求するのは越権行為、官僚による内閣への反乱に他ならない。罷免に値する。

8、 志位の言い分を聞くと、そもそも、憲法の天皇条項がわかっていない。「内閣の助言と承認」を「政治的性格を与え」ること、すなわち政治利用とイコールに考えているようだ。確かに歴代内閣は、「内閣の助言と承認」で天皇を政治利用してきた場合が多くある。しかし、志位の議論は憲法解釈論なのだから、実情と憲法解釈論をごちゃ混ぜにしては混乱というしかない。
 憲法解釈論では志位とは逆なのである。政治的『権能』をもたない天皇が国事行為をおこなっても、それが政治的『権能』の行使ではなく、したがって政治的性格を持たないのは「内閣の助言と承認」にもとづくからだという理解なのである。
 たとえば、国事行為の「三 衆議院を解散すること」は優れて政治的行為であるが、それが政治的性格を持たないのは「内閣の助言と承認」にもとづくからなのである。つまり、「内閣の助言と承認」は、言わば、天皇の公的行為を儀式化しその政治的性格を消すフィルターという役割なのである。だから、国事行為以外の「公的行為」にあっても内閣の「助言と承認」を必要とするものがあるのである。国事行為以外の「公的行為」だからといって、「内閣の助言と承認」が排除されているわけではない。
 志位の解釈するように、習近平との会見を国事行為以外の「公的行為」に分類するにしても、「内閣の助言と承認」は必要となるのである。

9、天皇による習近平との会見も親善外交であり内閣の助言と承認にもとづいて行うのが憲法の常識である。宮内庁ルールより内閣の助言と承認が優先する。小沢の宮内庁批判は正しいのであって、どうして志位はこういう”早とちり”の政権批判をしたがるのであろうか?
 おそらくは、長い間に血肉となってしまった古い政治図式が”本能”のようにざわめくからであり、また、独自色を出すという、これまた古くからのセクト根性の”衝動”が抑えられないからなのであろう。民主党政権がどこへいくのか「わからない」ので、余計に戦略というフィルターを通した批判が出来ず、”本能”と”衝動”が顔を出してしまうようだ。
 志位らは「建設的野党」とか”是々非々”と言いながら、jcpの独自色を出すことに焦っているようであり、練り上げた検討もなしに政権批判にクチバシを突っ込んで目立ちたがっている様子がありありである。

10、口先の効果という点から見れば政権与党である社民党の口先の方がよほど効果がある。だからjcpが目立ちたいのであれば口先の批判ではなく、実効性のあることを”建設的”にやるべきだ。たとえば、米大使館へ基地返還の大抗議デモを全国動員で組織する方がよほど効果があるだろう。金はかかるが、「赤旗まつり」のようにバスを仕立ててやるのである。アメリカによる恫喝への牽制にもなる。ところが、その”心根”が貧しいからどうしても口先の政権批判で代用してしまうことになる。
 しかも、小沢の秘書逮捕事件と同様に、官僚による民主党や民主党政権への批判に便乗する悪い”癖”がある。今度は宮内庁官僚による内閣への反乱に便乗している。内閣法制局を平和憲法の番人のように持ち上げる倒錯した議論といい、官僚機構と志位らはずいぶん”ウマ”が合うようである。というより、その貧しい”心根”、”本能”と”衝動”ゆえに、官僚の動きを利用するつもりで利用され、いつも政治情勢のポイントを見誤って時の反動側の援軍になるという轍を踏んでいる。