3月8日付けの赤いたぬきさん「思想としての共産主義・その核心」に共感し
てこれを書きます。いろんな意味の共感が含まれ、むしろ問題意識を共有してい
るんだなーと、わが身を振り返ったものでした。その共有の実態は、次のような
諸概念を上げるだけでも、ここの皆様にも十分お分かり願えることだと確信して
います。
たぬきさんの核心、道徳的倫理的要求、態度によってすぐさま呼び覚まされた
ものは、空想的共産主義でした。するとまたすぐに「科学的社会主義」が浮かび
ますが、これへの歴史的理論的批判も共有しているんだなと分かりました。一党
独裁とか「計画経済」の実際とかにも関わって、これが科学ではないことがはっ
きりしていると。それでもなお、こう語る所も一緒ですね。近代共産主義思想の
核心は、それが遺した負の財産をも抱えていくのだがそれでも生き続けていくは
ずだと。民族解放闘争や近代民主主義実現などに関わってこの概念が世界史に果
たした影響を一方で上げられており、他方では、環境、金融などに現れた「不均
等発展」・グローバリズムの破綻を、この不況下の人間不信を、一体誰たちがど
うするのかという点において。
さて、以上の諸概念実現に向けての問題の所在は、もうかなりはっきりしてい
るのではないでしょうか。よく言われる、国家の誤謬というような視点でもっ
て。「科学的社会主義」は資本主義以前の諸国家のように自然にはできず、国家
の掌握が絶対的条件でした。そして、「労働者階級の前衛党が中心になって掌握
する国家」というものを、善なるものとしか見ていなかったと思います。日本共
産党を支持する人々は今でも、そのはずですね。ところが、それがそうではな
かった。「労働者階級の前衛党が中心になって掌握する国家」って、意外にその
本質も実態も曖昧なものだったのではないでしょうか。ちなみに、それが国民本
位のきちんとした「計画経済」を実行できるはずの善なる者だという根拠、保証
はどこにあるのかと考えてみて下さい。例えば近代社会始まりの最大スローガン
「自由、平等、友愛」の実現に関わってその国家が免許皆伝であると、一体どう
保証されているというのでしょう。そんな免許皆伝の保証はどこにもありません
よ。これは、考えてみれば何の不思議もないことだ。そもそも今の世、世界で、
グローバリズムを人間的に制御できる世界体制の出現なんて、誰も課題にしてい
ませんから。「自由主義者」には、国家の誤謬とか国家の悪などは思考の大前提
と言って良いぐらいのものでしょう。また、グローバリズムに眉をひそめ、その
制御を語る新しい社会民主主義者たちも、こう語りますね。「大きな国家」、福
祉国家は非能率だし、官僚主義にもなるものであって、現代社会の最大課題、
「機会の平等」をすら当たり前のように実現してくれるものでは到底ない、と。
善なる国家が保証される理論的条件というものがまだ見つからぬ以上、人類は
多元主義で、試行錯誤をしながら進んでいくしかないのだと思います。また、強
大なグローバリズム勢力に対して、抵抗する世界の人々ができるだけ広く手をつ
なぎながら。そんな方向を望む時、たぬきさんが言う「核心」は宗教者も含んで
広い手繋ぎの根拠にもなっていくものだとも言いたいです。「自由、平等、友
愛」、「(一言にして人生でこれを行うべきものは)己の欲せざる所、人に施す
ことなかれ」、「情けは人のためならず」、「一期一会」。世界中の人々が昔か
らどこでも、こんなヒューマニズムを語ってきたのですから。単純な進歩主義に
与するわけではありませんが、こんなことは良く思います。前の20世紀一つ
とっても、人種的差別を許さないという点で、どれだけ大きな前進があったこと
でしょう。少なくとも人類であれば誰でも「機会の平等」を公然と否定できる人
はもういないはずです。19世紀の人々から見たら既にこれだけでも、夢みたい
な社会になっているのです。僕らが生きているこの当面は、ヒューマニズムで行
こう。それで良いではありませんか。
最後に、たぬきさんにもう一言。あまり実行、「実践」って強調しないで下さ
い。間違った理論の実践が、怖いんです。「実践」と「狭さ」って、親類だと思
いませんでしょうか。僕には、そんな反省もあります。