これはすべて全く見事な、極めて説得力のある主張である。 ただ、不思議に思われるのは、レーニンやトロツキーのような 賢明な人たちが前述のような事実から起こるべき明かな結果を 予測しなかったことだ。憲法制定議会は十月の急転回という決定的な 転換点のはるか以前に選ばれ、したがってその構成が新しい事態の 姿ではなく、すでに乗り越えられた過去の姿を映し出すものであった 以上は、この時効になった、つまり、死産した憲法制定議会を解散して 直ちに新しい制憲議会の再選挙を公示するという結論が当然 出て来たはずであろう。!かれらは昨日のロシア、ケレンスキーのロシア、 動揺とブルジョアジーとの連合の時期を反映した議会に革命の運命を 委ねることを欲せず、それを許さなかった。それならば、残る道は、 その代わりに、再生してさらに進んだロシアから生まれた議会を直ちに 召集することだけしかなかったはずであろう。
ところがそうしないで、トロツキーは十月に構成された憲法制定会議の 特殊な欠陥から憲法制定会議は全て不要だという結論を下し、しかも かれは革命期間中は一般に普通選挙によって選ばれた人民代表制度は 全て役に立たないというところまで、これを一般化したのである。
「政府の権力を巡って公然かつ直接的な闘争が行われてきたおかげで、 労働者大衆はごく短期間に豊富な政治的経験を積み、一段一段と 急速に発展している。民主主義制度という動きの鈍い機構は、国が 広ければ広いほど、そして技術的な設備が不完全であればあるほど、 この発展に追い着くことができなくなる。」(十月革命からブレスト講和条約まで トロツキー)
ここで既に「民主主義制度一般の機構」が問題にされている。これに対して まず指摘しておかなければならないことは、人民代表制度に対するこのような 評価の中にこれまでの全ての革命時代の歴史的な経験とは明らかに対立する ような、ある図式的でかたくなな見方が現れていることである。 トロツキーの理論によれば、選出された議会というものは全て、選挙人が投票所に 行ったその瞬間の精神状態や政治的成熟や気分を、その場限りで反映する ものにすぎない、ということになる。従ってその理論によれば民主主義の機関は 常に選挙期間中の大衆の映像に過ぎないものであって、丁度ハーシェルの星空が 常に示しているのは、われわれが眺めた時の天体の状態ではなく、無限の 彼方から地球に向けて光の使者を送り出した瞬間の状態であるようなものだ、 ということになる。一度選出されたものと選挙民との間の生きた精神的な つながりの全てやその両者の間の継続的な相互関係の全てがここでは全て 否定されている。
これは歴史的な経験の全てに何と甚だしく矛盾することであろう ! 歴史的経験が示しているのは、それとは逆に、民衆の気持の生き生きとした 流れが絶えず代表機関を取り巻いて渦巻き、代表機関の中まで浸透して、 その方向を決定するということである。そうでなければ、どんなブルジョア的な 議会でも、時折、「国民の代表」が突然「新しい精神」に元気づけられて、 全く意外な主張をするといった愉快な跳ね上がりが見られたり、干乾びきった ミイラが時に若返ったり、シャイデマンの乾分のような連中が―工場や仕事場や 街頭で騒ぎが起こると―突然自分の胸の中に革命的な高鳴りを見出すと いったことがどうして起こりえようか ?
そして選出された代議体に対する大衆の気分や政治的成熟のこのような 不断の、生き生きとした影響力の行使が、まさに革命の真只中では、 党の看板や選挙人名簿といった杓子定規な形式のために活動を停止 すべきなのであろうか ?全く逆だ !まさに革命こそはその灼熱によって、 世論の波や民衆の生活の脈拍が代議体に対して瞬間的に驚くべき影響を 与える、あの微妙な、微動する鋭敏な政治的雰囲気を作り出すのである。 旧体制下の制限選挙権によって選出された古い反動的な、あるいは せいぜいのところで穏健な議会が突然、変革の英雄的な代表者に、尖兵に なるという、あらゆる革命の初期の段階に見られる周知の感動的な光景は、 常にまさにこのような所から生まれて来るのである。 その古典的な事例が、1642年に選出、召集され、七年間に亘ってその座に 座り続けたイギリスの有名な長期議会であって、その間に民衆の気持ちや 政治的成熟や階級分裂を反映し、さらには跪いた「下院議長」の下での 王冠との初期のいじらしい小競合いから元老院の廃止、チャールズ王の処刑、 共和国の宣言へ、という絶頂点までの革命の進展のあらゆる有為転変を 映し出したのである。
そしてこれと同様の見事な変化がフランスの三部会でも、ルイ・フィリップの 全権議会でも、いやそれどころか―最近の最も目覚しい例はトロツキーの ごく身近の―ロシア第四ドゥーマ(国会)でも繰り返されたのではなかっただろうか ? 第四ドゥーマはキリスト紀元1912年に、反革命の厳しい支配下に選出され、 1917年二月に突然、変革に老いらくの恋をして、革命の出発点となったのであった。
これらの全ては、「民主主義制度という動きの鈍い機構」が―まさに 大衆の生き生きとした運動と不断の圧力の下では、強力な矯正力を 具えていることを示している。そして制度が民主主義的であれば あるほど、大衆の政治生活の脈搏が生き生きとして力強ければ強い ほど―固苦しい党の看板や古びた選挙人名簿などにも拘わらず― その働きは一層直接的で確かなものになるのである。確かに、どんな 民主主義的な制度にも、おそらく人間の制度の全てが持っているような 限界や欠陥はあろう。ただ、トロツキーやレーニンが発見した民主主義一般の 除去という救治策は、それを抑える筈の悪よりも一層悪い。 それはあらゆる社会的制度に付きものの欠陥を正すことができる 唯一のものである生き生きとした泉を、つまり、広汎な人民大衆の 積極的な、自由な、精力的な政治生活を殺してしまうからである。略
しかし、憲法制定議会と選挙法を論じただけではまだ問題を論じ きったことにはならない。さらに、労働者大衆の健全な公共生活と 政治活動の最も重要な民主主義的保障の廃止、つまり、出版の自由、 結社・集会の権利がソヴェト政府の反対者には全て停止されている事をも 考察しよう。こうした権利の侵害の論拠としては、民主主義的な選出 機関の動きの鈍さというトロツキーの前述の主張では不十分でどうにも ならない。それどころか逆に、自由で制約のない出版、妨げられる事の ない結社・集会の日常生活無しには、まさに広汎な人民大衆の支配 などというものは全く考えることもできない、ということこそが、明らかな、 争う余地の無い事実なのである。
レーニンは、ブルジョア国家は労働者階級の抑圧のための道具であり、 社会主義国家は、ブルジョアジーの抑圧の為のものだ、と言っている。 社会主義国家は、いわば、資本主義国家の裏返しにすぎない、と いうことだ。この単純化した見方は最も本質的な事を見落としている。 ブルジョア的階級支配は全人民大衆の政治的訓練や教育を全く 必要としない、少なくともある特定の狭い限度以上には必要としないと いうことである。一方、プロレタリア独裁にとっては、それこそが生命の源、 空気なのであって、それ無しにはプロレタリア独裁は存在することが できないのだ。
「政府の権力を巡って公然かつ直接的な闘争が行なわれて来た お陰で〔労働者大衆はごく短期間に豊富な経験を積み、一段一段と 急速に発展している〕」。ここでトロツキーは自分自身と自分の党の仲間 たちをこの上なく的確に反駁している、まさにこの通りであるからこそ、 かれらは公衆の生活を抑えることによって政治的経験の泉と発展の 一層の昂揚を塞いでしまったのである。それとも経験や発展は ボリシェヴィキの権力掌握までは必要だったが、頂点に達してしまって からは余計なものになった、と考えるべきなのか。
実際はその逆だ !ボリシェビキが勇気と決断とをもって立ち向かった 巨大な課題こそが、大衆の極めて集中的な政治的訓練と経験の集積を 求めたのである。
レーニン=トロツキーが意味する独裁理論の暗黙の前提は、社会主義的 変革とは、その為の完成した処方箋が革命政党の鞄の中にあって、 それをただ全力を上げて実現さえすれば良い事だ、ということだ。 だが残念ながら―或いは場合によっては、幸せなことに―そういう ものではない。経済的、社会的、法的な制度としての社会主義を実際に 実現する事は、適用さえすれば良いような完成した処方箋を寄せ集める 事とはおよそ異なって、全く未来の霧に包まれた事柄なのである。 われわれが綱領として持っている物は、処置を取るべき方向を示す わずかの大きな道標にすぎず、しかも主として否定的な性格の物 なのである。社会主義的経済への道を拓く為には、まず最初に何を 取り除くべきかのおおよそについては、われわれは知っているが、他方、 社会主義的原則を経済、法律、全ての社会関係の中に導入する為に、 如何なる種類の大小様々な無数の具体的、実践的な処置をその都度 採るべきかという事については、どんな社会主義政党の綱領も、どんな 社会主義教科書も説明してはいない。これは欠陥ではなく、これこそが まさしく科学的社会主義のユートピア的社会主義に対する長所である。 つまり、社会主義的社会制度とは、経験という独自の学校から、生きた 歴史の生成から、機が熟して生まれて来る歴史的な産物であるべき ものであり、また歴史的な産物であり得るものであって、この点では 有機的な自然と全く同様であり、結局はその一部を成すものであって、 現実の社会的な欲求と共にその欲求を満たす手段を、課題と同時に その解決をもたらすという美しい習慣を持っているのである。 しかし、そうだとすると、社会主義はその本質からいって強制されたり、 指令によって導入されたりするものではない事は、明らかである。 社会主義は一連の強制処置を前提としている―私有財産等に対しては。 否定、破壊は命令することができるが、建設、積極的な物の創造は 命令ではできない。処女地。無数の問題。ただ経験だけが訂正し、 新しい道を拓くことができる。ただ何の拘束も無い、湧き立つような 生活だけが、無数の新しい形態を、即興曲を考え出し、創造的な力を 持ち、あらゆる誤りを自ら正す事ができる。自由を制限された国家の 公共生活は、民主主義の排除によって、あらゆる精神的な豊かさや 進歩の生き生きとした源泉を塞いでしまうからこそ、息苦しく、惨めで、 形式的で不毛なものとなる。そこでは問題は政治的な事だったが、 経済的、社会的問題でも同様である。全人民大衆がそれに参加 しなければならない。そうでなければ、社会主義は極僅かの知識人 たちによって机上から命令され、強制されるものになろう。
無条件に開かれた公共的統制が必要だ。そうでなければ、諸経験の 交流が新政府の役人たちの閉鎖的な内輪でしか行なわれないことに なろう。腐敗は避け難いものになる。社会主義の実践は数世紀に亘る ブルジョア的階級支配によって人間的に貶められてきた大衆の全面的な 精神的変革を求める。利己的な本能の代わりに社会的本能を、怠惰の 代わりに大衆のイニシアチブを、あらゆる困難を乗り越える理想主義を、 等々。レーニンほど、この事を良く知り、徹底的に語り、執拗に繰り返して 来た者は他にはいない。ただ、かれは完全に方法を間違えている。 命令、工場監督官の独裁的権力、厳罰、恐怖の支配。これらは全て 一時的な間に合わせである。こうした再生への唯一の道は、公的生活 という学校そのものがもたらす訓練、無制限の広汎な民主主義、世論 である。まさに恐怖の支配こそは、士気を沮喪させ、退廃させる元だ。 (ロシア革命論 ローザ・ルクセンブルグ)
これが獄中草稿だと言うのだから、驚く他はない。
ロシア革命の問題点をこの時点でほとんど把握していたと言えるだろう。
続きは次回投稿します。