これら全てが欠落した場合には、現実には何が残るだろうか ?レーニンとトロツキーは 普通選挙によって選出された代議体の代りにソヴェトを労働者大衆の唯一の真の 代表機関であるとした。しかし全国の政治生活が抑圧されるのに応じて、ソヴェトの中の 生活力も益々衰えていくに違いない。普通選挙、無制限な出版・集会の自由、自由な論争が 無ければ、あらゆる公的な制度の中の生活は萎え凋み、偽りの生活になり、そこには 官僚制だけが唯一の活動的な要素として残ることになろう。公共の生活は次第に眠り込み、 無限のエネルギーと限りない理想主義を持った数十人の党指導者が指令し、統治し、 現実にはその中の十人位の傑出した首脳たちが指導して、労働者のエリートが指導者 たちの演説に拍手を送り、提出された決議案を満場一致で承認するために、時折会議に 召集される、ということになろう。つまり、要するに同族政治なのだ―独裁には違いないが、 しかしプロレタリアートの独裁ではなく、一握りの政治家たちの独裁、つまり全くブルジョア的な 意味での、ジャコバン支配のような意味での独裁なのである。 そればかりではない。こういう状態は暗殺、人質の射殺等々といった公的生活の野蛮化を もたらさずにはおかないであろう。これは如何なる党派も免れる事のできない強力な 客観的な法則だ。
レーニン=トロツキーの理論の根本的な誤りは、まさにかれらがカウツキーと全く同様に、 独裁と民主主義を対立させるところにある。ボリシェビキの場合もカウツキーの場合も、 問題の提起は、「独裁かそれとも民主主義か」となっている。カウツキーは勿論民主主義に 賛成だが、それはブルジョア民主主義の事だ。というのも、かれはブルジョア民主主義を まさに社会主義変革との二者択一の関係に置いているからである。 レーニン=トロツキーは逆に、民主主義に対して独裁を支持しているが、その事によって 一握りの人物たちの独裁を、つまりブルジョア的な独裁を支持しているのである。 これは二つの対極だが、両者共に真の社会主義の政治からは等しく遠く離れている。 プロレタリアートは一度権力を握れば、カウツキーの忠告に従って「国の未成熟」という 口実の下に社会主義的変革を諦める事はあり得ず、自分自身とインターナショナルと 革命を裏切る事なしには、もっぱら民主主義にだけ献身する事はできない。 プロレタリアートはまさに即刻、精力的に、断乎として、容赦なく社会主義的処置に 着手すべきであり、そうしなければならない。つまり、独裁を行なうのである。 しかし、この独裁は階級の独裁であって、一党や一派の独裁ではない。 階級の独裁とは、つまり、最も広く公開され、人民大衆がこの上なく活発、自由に参加する、 何の制限も無い民主主義の下での独裁である。「マルクス主義者として、われわれは 形式的な民主主義の偶像崇拝者であった事は一度も無い」とトロツキーは書いている。 確かにわれわれは形式的な民主主義の偶像崇拝者であった事は一度もないのだ。 それでは例えば、社会主義が、マルクス主義がわれわれにとって具合の悪い物になった 場合には、クーノー=レンシュ=パルヴス流にゴミ箱に投げ込めば良いという事になるのだろうか? トロツキーとレーニンはこの問いをはっきりと否定している。 われわれは形式的な民主主義の偶像崇拝者であった事は一度もない、という事は、ただ、 われわれは常にブルジョア民主主義という政治的な形式から社会的な核心を選り分け、 常に形式的な平等や自由の甘い皮の下に在る社会的な不平等や不自由という苦い核を 剥き出して来たという事に他ならない。―それも平等や自由を投げ棄てる為にではなく、 労働者階級が皮で満足せずに、むしろそれを新しい社会的な内容で満たす為に政治権力を 握るようにと鼓舞する為にである。 プロレタリアートの歴史的な使命は、権力を握った時に、ブルジョア民主主義の代りに 社会主義的民主主義を創始する事であって、あらゆる民主主義を廃棄してしまう事ではない。 しかし、社会主義的民主主義は、社会主義経済という土台が創られた時に、初めて、それまで 一握りの社会主義的独裁者たちを忠実に支持して来たおとなしい人民への素敵な クリスマスプレゼントとして、約束の地で始められる、というものではない。社会主義的民主主義は 階級支配の廃止、社会主義の建設と同時に始まる。それは社会主義政党による権力の 獲得の瞬間に始まる。社会主義的民主主義こそは、プロレタリアートの独裁に他ならないのだ。
まさしく、独裁だ !しかし、この独裁の本質は民主主義の用い方に あるのであって、その廃止にあるのではない。ブルジョア社会の 既得権や経済諸関係への精力的な、断乎とした介入であって、 それなしには社会主義変革は実現されないからである。しかし、 この独裁は階級の仕事であって、階級の名の下に少数の指導者が 行なうべきものではない。つまり、それは大衆の積極的な参加から 一歩一歩生まれ、大衆の直接的な影響下にあり、全公衆の統制を受け、 人民大衆の政治的修練の高まりの中から生まれて来るものでなければ ならない。
ボルシェビキたちも、世界大戦、ドイツ軍による占領と結びついた一切の 異常な困難という桎梏の下に苦しむということがなかったならば、 確実にそうしたことであろう。これらの困難が、最善の意図とこの上なく 美しい原則に充ちた社会主義の政策の全てを歪めずにはおかないのだ。
その何よりの証拠がソヴェト政府による度重なるテロルの使用であって、 しかも特にドイツ帝国主義の崩壊直前の時期に、ドイツ大使に対する 暗殺をはじめとしてテロルが行なわれているのである。革命が バラの水によって洗礼されるものではないという常識は、それだけでは かなり不十分だ。(注ドイツ大使の暗殺は、ボルシェビキが行なったものではない 注は風来坊)
ロシアで起こっている事は、全て理解できる事であって、ドイツのプロレタリアートの沈滞と ドイツ帝国によるロシアの占領が出発点と終点を成す因果の鎖に不可避的に 繋がるものである。このような状態の下で、なおレーニンとその同志たちが最上の 民主主義を、模範的なプロレタリア独裁と花咲く社会主義経済を魔法で呼び出す事を 期待するとすれば、それはかれらに超人的な事を求めるに等しい。かれらは断固とした 革命的な態度と、模範的な行動力と国際社会主義に対する確固とした忠誠によって、 このとてつもなく困難な状況の下でも為すべき事を実際十分に果たして来たのである。 危険は、かれらが已むを得ずやった事を価値あるものとし、この宿命的な条件の為に 採らざるを得なかった戦術の全てを今後理論的に固定化し、国際プロレタリアートに 社会主義的戦術の手本として見習う事を勧めようとするところに始まる。その事によって かれらは全く不必要な事に、自分で自分の志を遮って、自分たちの真の、争う余地のない 歴史的な功績を已むを得ざる失敗の陰に隠す事になる。また同様にもしかれらが ロシアにおける国際社会主義の破産の余波に他ならなかった歪みの全てを、 新しい認識として国際社会主義の武器庫に加えようとすれば、かれらはその為に まさに苦闘した国際社会主義に対して有害な働きをする事になるのだ。
ドイツの政府派社会主義者たちがロシアにおけるボルシェビキの支配はプロレタリア独裁の 戯画だと叫ぶなら叫ぶがよい。もしそれが戯画であったか、或いは戯画であるとすれば、 それはまさに社会主義的階級闘争の戯画であったドイツプロレタリアートの態度が生み出した ものに他ならないのだ。われわれは全て歴史の法則の下にあり、社会主義的な政策は まさに国際的にしか貫かれない。ボルシェビキは真の革命政党が歴史的な可能性の限界の 中で成し得る限りの事は全てやり得る事を示した。かれらは奇跡を起こそうとすべきではない。 何故なら、孤立し、世界大戦で消耗し尽し、帝国主義によって絞め殺され、国際プロレタリアートに よって裏切られた国で模範的な、完全無欠な革命をやる事は一つの奇跡であろうからだ。 肝心な事は、ボルシェビキの政策の中の本質的なものと非本質的なものを、核心に属するものと 偶然的なものを見分ける事である。全世界における決定的な最終闘争を眼前にした この最後の時期において、社会主義の最も重要な問題、まさに目下の焦眉の問題は、 戦術のあれこれの些細な問題ではなく、プロレタリアートの行動力、大衆の革命的な行動力、 社会主義全体の権力への意志である。この意味で、レーニン、トロツキーとその友人たちは 世界のプロレタリアートに身をもって範を示した最初の人たちであり、今に至るもなお、 フッテンと共に、次ぎのように叫ぶ事ができる唯一の人たちなのである― 「われそれを敢行せり !」と。
これこそがボルシェビキの政策の本質的なものであり、不朽のものである。政治権力を握り、 社会主義の実現という実践的な問題提起をすることによって国際プロレタリアートの先頭に 立ち、資本と労働との間の対決を全世界的に強力に押し進めたというその意味で、 かれらの不滅の歴史的功績は後世に残るものである。ロシアでは問題は提起する事しか できなかった。問題はロシアでは解決され得なかった。それは国際的にしか解決されない。 そしてこの意味では未来はいたるところで「ボルシェビズム」のものなのである。 (ロシア革命論 ローザ・ルクセンブルグ)
ローザのボルシェビキが政権獲得後採用した政策に対して、殆んど全面的に批判を加えている。
土地政策から、選挙権の制限、ソヴェトにおける一党独裁、憲法制定会議の武力弾圧、
民族自決権など、極めて多岐にわたる。
しかし、ローザは以上のような数々の批判にもかかわらず、ロシアに関する限りボルシェビキの
成果を認めていた。しかし、ボルシェビキがロシアにおいてのみやむを得ない
害悪として容認される政策を、外国に押し付けようとする時ローザの怒りは爆発する。
彼女の民主主義に対する深い信念が、レーニンの独裁制理論がどうしても容認できなかった
のでは、ないだろうか。
こうした観点に立って、ローザは、ボルシェビキを中心とする共産主義インターナショナルの結成に
真向から反対した。ドイツ共産党が成長するまでに、コミンテルンを作れば、必ずモスクワの
権威によって、ボルシェヴィズムが強制輸出されるというのが彼女の反対理由だった。
1919年の月にモスクワから第三インターナショナルの組織についての招請が来たとき、ローザは
フーゴー・エーベルラインとオイゲン・レヴィネをドイツ共産党の代表としてモスクワに派遣し、
第三インターナショナルの早期結成に反対するよう訓令した。レヴィネは国境で抑留され、
エーベルラインのみ会議に出席したが、エーベルラインはローザの訓令を守ってコミンテルンの
結成に反対を続けた。ドイツ共産党が反対したのでは、コミンテルンの意味をなさないので、
レーニンたちが必死になって、エーベルラインを説得した。たまたま到着したオーストリアの
代表が中欧の革命情勢に熱弁を振るったので、エーベルラインは遂に反対を撤回して、
採決に棄権する事になった。こうしてドイツ共産党を除く全員一致で、1919年3月
コミンテルンは辛うじて成立した。彼女の死を転機として、ドイツ共産党のボルシェビキ化は
急速に推進された。
ローザのレーニン批判の核心は、党を職業革命家のみに限定して、中央委員会に強力な
独裁権を与えると、一握りの強力な中央委員が末端組織の生殺与奪権を握り事になり、
その結果は大衆の自発性を圧殺し、党を大衆から遊離して、必然的に官僚制と奴隷制を
もたらすという事にあった。ローザとレーニンの相違点は幾つもあるが、レーニンの主張する
「労働者階級のための、職業革命家による党」とローザの主張する「労働者階級のための、
労働者階級による党」との対立が最も決定的だったのではないだろうか。
その後のソ連、東欧、アジア各国のコミンテル型の社会主義政権は、
全てローザの危惧した結果になってしまった。日本共産党が、民主集中制を維持している限り、同じような結果をもたらすだけだろう。
否、それどころか、共産党の安保条約下での自衛隊活用の主張は、
共産主義者が、社会民主主義と決別したドイツ社会民主党の
戦時国債の発行に賛成した原点を否定し、改良主義に転落した
事を示しているのでは、ないだろうか。