本通信にいくつか投稿いたしましたが、後で読み返したら極めて”大雑把”な文 章がありました。
以下の「文章」を訂正いたします。
1 「トロッキーはメンシェビキに属していた。」
→トロッキーは、革命論についてはレーニンに親近性、組織論についてはメン
シェビキに親近性を持っていたが、メンシェビキに属していたわけではない。
1904年、トロッキーは「われわれの政治的任務」と題する才気煥発たる毒
舌に充ちたパンフレットを出版した。
「わが敬愛するアクセルロード(古いマルクス主義者でメンシェビキ指導者) に」捧げることによって、この著者(トロッキー)の現在のメンシェビキとの親 近関係が宣明された。」(ボリシェビキ革命 1 E.H.カー 33頁 みす ず書房 昭和42年1刷)
更に、トロッキーはレーニンのやり方(「職業革命家による鉄の規律」組織
論)は、「ジャコバン主義の悲劇的な非妥協的態度の間抜けたカリカチュア」で
あり、「党は党組織により、党組織は中央委員会により、そして結局は、中央委
員会は独裁者によって置きかえられる」(同上 33頁)と批判した。
E.H.カーは、本書でレーニンの組織論に対する1904年当時の批判を二
つ紹介している。
一つはプレハノフ。
「もしもボリシェビキ的観念が行きわたるならば、「一切のものが結局は一人 の人間をめぐって旋回することとなり、このワンマンはおのずから彼みずからの うちに一切の権力を統合することとなるであろう」(同上 34頁)。
もう一つは、ローザ・ルクセンブルグ。
「彼女はレーニンの「超中央集権主義」の政策を、官僚的で非民主的だと非難 したのである。彼女はレーニンのもくろみの中にいかにもロシア的な性格がある とみたてて、痛烈に、「ロシア絶対主義によって粉微塵に押し潰された「自我」 が「ロシア革命家の「自我」の形で再現し、これが「さか立ちして新たに自らを 歴史の力強い完成者なりと宣言するのだ」(1904年7月 ノイエ・ツアイ ト)(同上 34頁)。
2 「10月革命時における、レーニンとトロッキーの合同」
→これについて、E.H.カーは、次のように叙述している。
1917年5月、アメリカからペトログラードに帰還したトロッキーは、翌日 ペトログラード・ソビエトで演説した。
「1905年の最初のソビエトの傑出した人物としての彼の威信は、直ちに彼 を潜在的指導者にした。彼は、「統一社会民主主義者」(普通には「メジライオ ンツイ」として知られている)と呼ばれる社会民主主義的な小グループに加わっ たが、これは、1913年いらいペトログラードに存在し、ボリシェビキおよび メンシェビキ双方からの独立を主張していた。」(同上 79頁)
「1917年5月10日、レーニン自らメジライオンツイの会合に出席して、 彼らに「プラウダ」編集部と来るべき党大会の組織委員会とに一つの席を提供 し、また「国際主義的」メンシェビキのマルトフのグループに申し入れの手をさ しのべるようにとも提案した。」(同上 79頁)
1917年7月、政府軍による弾圧によりレーニンはフィンランドに逃れた。 このような状況の中「トロッキーと「メジライオンツイ」の総勢約四千人は、つ いにボリシェビキに加わった。」(同上 81頁)これについて、E.H.カー は脚注で次のように述べている。
「この接近の特殊な性格は、のちに、次のような一規定によって承認された。 その規定によれば、メジライオンツイは、一定期間の党員資格が要求される役員 任命には、彼らの組織メンバーであった期間を党員資格相当のものとみなすこと がゆるされるというのであった(ロシア共産党(ボリシェビキ)中央委員会通報 第33号、1921年10月、41頁をみよ)」(同上 81頁 脚注(2))
以上です。
30年前、40年前(高校2、3年生から33歳ごろまで。)、学生運動、労
働組合運動を行っていたころ読んだマルクス主義諸文献の記憶をベースに大雑把
な文章を書いてしまい恥ずかしい次第です。
しかし、E.H.カ-の「ボリシェビキ革命」を再読して確かにレーニンは帝
政ロシアの苛酷な弾圧に対する党組織(鉄の規律をもつ少数の職業革命家組織、
中央集権的組織)の確立を追求してきた。論文を見れば、トロッキーの折衷主義
的な主張に対して口を極めた非難をしている。しかし、レーニンは、何のために
中央集権的組織を追求してきたか、国家権力の奪取である。革命運動のリアルな
現実を見据え、必要であれば他党との合同も辞さない革命に対する真摯な実践が
あった。ここに、原 仙作氏が主張されるレーニンの「民主集中制」と現共産党
指導部が主張する「民主集中制」との決定的違いがあるのではないか。そう、現
共産党指導部の民主集中制はそれが自己目的化され、指導部の化石化へと至って
いる。
最後に、現共産党指導部の「民主集中制」(分派禁止、言論封殺制)に対する
「レーニンの批判」を「ボリシェビキ革命」からの孫引ではありますが紹介いた
します。
1921年1月、第10回党大会を前にして、レーニンは次のように言明す
る。
「われわれが種々のグループを形成すること(とくに大会以前には)は、勿論許 される(そして、票集めすることも同様に許される。)しかし、それは、共産主 義(サンジカリズムではなく)の範囲内において、もの笑いにならぬような仕方 で、なされねばならない」(同上 164頁)
しかし「党大会が1921年3月8日にひらかれるに先立って、クロンシュ タットの叛乱一革命以来最も深刻なソビエト体制に対する国内からの脅威ーが発 生」(同上 164頁)。
レーニンは、クロンシュタットの叛乱を受けて次ぎのように絶呼する。
「同志諸君、われわれには反対派は要らない、いまはそんなときではないのだ! 味方か、それとも敵かー反対派とではない、ライフル銃をもってだ」(同上 165頁)
これを、戦後の日本共産党の指導部は民主集中制として絶対化してきた。まさ に、レーニン主義の教条化だ。レーニンは、ソビエト体制の転覆の危機にさいし て「分派禁止」を絶叫したのであって、いつでも、どこでも分派禁止を主張した わけではない。たった2ヶ月で主張を変えたのである。
・・・原 仙作氏が「三重の原罪を負った日本共産党の民主集中制」の中で、不
破哲三氏が外国の干渉が去り国内情勢が安定した段階で「分派禁止」が第10回
党大会で決定されたとした点及びレーニンの革命運動に対するリアリズムと比較
した現共産党指導部の硬直性等々を批判しているのでご参照ください。
50年も60年も、情勢も運動の現実も見ないで、ただひたすら「民主集中
制」をお題目のように唱えるのは宗派と同じである。
現共産党指導部の民主集中制は、「小ブル化、化石化、サークル化」(原 仙作
氏)の根源的基盤となっている。