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一般投稿欄

共産党の否定の否定

2010/8/21 佐井 研 50代 団体職員

 歴史が、レーニンの「社会主義レシピ」をゴミ箱に放り込んで久しい。
 それでも不破さんは、いまだ、そのレシピのあちこちをいじり回し、自己弁護と保身の辻褄あわせを続けている。
 その挙句、善意の党員を相手に、「これは科学的社会主義の新たな理論的発展である」などと語る。
 本来なら、志位委員長あたりが、「どうか山荘内に限って、お一人でお気の済むまでどうぞ」とでも言うべきことなのだが、そうは言わないところに、この党の幹部会というものの一蓮托生たる裏事情が透けて見える。
 その幹部連が、学習だ、講演だと言っては、不破さんの話に党員を巻き込む。
  酒を酌み交わす友人の地方議員がいるが、彼は憎いぐらい柔軟な人間で、そういうことには「お付き合い程度」だと言い続けている。
 「もう、マルクスレーニン主義や綱領から自治体のあるべき方向を見出すなんて時代じゃないもの」とのたまう。「そんな時代もあったの?」、「ないね」、「じゃ、何でお前は共産党の議員なの?」、「社会を進歩させたい、そういうおれの夢を追求するには議員というステージは大事だ。共産党はその足場だよ。今のところ深刻な矛盾がない」
 彼が話すには、「当面は民主主義の徹底だ」とする党の基本方針が、彼と党幹部の矛盾の緩和剤なのだ。だが、他の党派、市民との共同問題では、党幹部の滔々たる「科学理論」に押しつぶされることもあるようだ。
 それを克服することが、この党の現在の課題であり今後の分水嶺になるのだとか。
 「こんな想いは、結構、党内の地方議員を中心に共有され始めている」とも語る。
 実は我々二人は、はるか昔、「沖縄を考える高校生の会」の仲間であった。この男は、その後、共産党に入るが、高校時代の2年ほどを、「学会員」の師弟や共産党の誹謗する「トロツキスト」も含めた多様な「高校生市民運動」の中ですごしたことで、彼の友人のベース、つまり視野のベースを構築している。
 ほんとの「共感」をちゃんと「共有」していることが、彼の柔軟性を維持しているのだろう。だから共創協定の顛末に見るような、我田引水、ドグマまみれの「オレがオレが」の突っつき合いや非難合戦の醜態をさらすこともないのだ。
 共感は、考え方や方法論、目標地点などの一致を絶対要件とはしない。
 およそ近代では、社会進歩の軸は共感だ。これを押し広げながら共感の中で一致できる目標を探ること。
 共感が生み出す共同の可能性に、意見の相違の実在を無視して、共同の前提条件を立て、これを絶対化する行為自体が政治問題の無限な発展性を否定する一人よがりに過ぎないし、安直な図式化に過ぎない。
 だから、政党であれ、どのような組織であってもだが、トップが利権ドグマ、オレがオレがであることこそが進歩の障害物となる。
 「大衆」は、ただ嘆き苦しんで、超人の救いの手を待つだけの存在ではない。迷いの中でも、解決の糸口をそれぞれに思い描く。平和、沖縄基地、消費税…どんな問題でも。
 「共感」を軸に糸口を語り合い、知恵をまとめあうのが真の共同。そこで出た知恵は、鼻持ちならない「前衛エリート」などが現実に背を向けて製造した「理論」をはるかに凌駕するはずだ。
 このことを、知覚どころか想像も出来ない人は、民主主義を紡ぐ能力に欠ける。
 「レーニンレシピ」を今度は「不破レシピ」に置き換えようと、山荘で「歴史的」、「実証論的」に苦心惨憺しているという「現代のマルクス」は、来るべき社会が、本当に自身の脳内から生まれると思っているのだろうか。「無神」の神が遣わした神の子であるような思い込みに至らないことを願わずにはいられない。
 私は、共産党の破局も自然死も望みたくない。一般党員の、その善意も丸ごと歴史のゴミ箱へと捨て去るのはあまりにも忍びないからだ。
 確かにレーニン型共産党とその幹部は、人類が様々に夢描いてきた「社会主義社会」を似ても似つかぬグロテスクなものとしてこの世に現出させ、現代の人々を失望の底に突き落とした。つまり、不破さんの愛好する「実証論的に」という言葉を使うなら、レーニン型共産党こそ、地上最大の反社会主義勢力であり、そのプロパガンダだったのだ。
 「否定の否定」は、日本のレーニン型政党にどのような結末を準備するのだろう。
 心ある共産党員の党革命。民主集中制から党員への権力移行の問題、そして本当の国民共同をめざす政党への脱皮。まさに成否が微妙な、革命的気概の求められる難題だが、その成否は別として、その取り組みについては、歴史は決してゴミ箱に捨て去るとは思えない。それを期待する。
 だから私も、友人へのつたない支援と酒談義は、私自身の夢の追求として、今後も続けて行きたいと思っている。