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参院選の結果について

2010/9/7 坂田 等 60代 無職

 この「さざ波通信」は数年前に何度か見たことがあります。今回見るまでずっ とご無沙汰していました。当時の印象は共産党に対してまじめに心配している層 と批判派とでもいうべき層とに二分していたように思います。それに比べ今回は 概ね良識派とでもいうべき層に見受けられます。
 さて、先日私は党中央に「参院選結果について」というメールを送りました。 それをここに転記しようとするわけですが、そのことが逆効果にならなければよ いがと若干心配する部分もあります。「党」がこのサイトをどう見ているかにも よりますが、私の意見を純粋に受け止めずある一派に偏したものと色眼鏡で見る ようであったら効果が半減してしまうのではないかと思うからです。しかし私の 意見が世間に発表されず党の引出しにしまいこまれたままになってしまうことも 恐れます。そこで、このサイトに公開しておこうと決意した次第です。以下の文 章がその全文です。

党中央幹部の皆様へ

 参院選の結果を受けて、党内外の意見を広く聞きたいという今度の党中央の決 定は大変喜ばしく思います。今までの選挙総括の大半は概ね党の力量の不足か政 権党の攻勢に負けたというような総括にならないような総括を繰り返してきたよ うに思います。そこには身を切るような切実さが感じられませんでした。という のは、いつも政策は正しかったが云々、と上記のような結論、つまり精神論で 終っていたからです。これを言い換えれば、自分たちは正しいが、相手が間違っ ている、という論法で常に対処していたということです。このことを国民は肌で 感じているのです。その例は、過去の不都合なことに対する党の対処の仕方に表 われています。大会や声明で世間にきちんと公表することなく、「党史」の中で 表現を変えたり、削除したりすることによってなしくずし的に変更しています。 ですから過去のことを知らない若い党員はきれいに修正された党の姿しか知らな いということになります。ところが国民の方が過去の共産党の取ってきた態度は よく覚えているものなのです。そこに党と国民とのギャップが生まれます。もち ろん原因がそこだけにあるとは思っていません。
 ソ連をはじめとするかつての社会主義国の姿が大きく影響しています。なによ りも、日本の党を含む党内外の言論(表現、報道)の自由が保障されていないこ とです。しんぶん「赤旗」を見ていて面白くないのは共産党に対する批判的意見 がほとんど載っていないことです。不破さんをはじめとする一部上層部は今の状 況をよく分かっていると思います。というのは不破さん自身、過去の論理と現在 のそれとは違っていることを自覚しているはずです。そのことを責めているので はありません。状況の変化に応じて変わる事はなんらやましいことではありませ ん。むしろ頑固な教条主義こそ批判されなくてはならないでしょう。そして、党 全体が上に述べたようなことを自由に開放的に明るくなされるような党に変える 勇気を持つべきです。まだまだ敵の謀略にかかってはならないという警戒心が党 内に強いのだろうな、とは思います。しかし、それでこそ国民を信頼することで す。党が国民に信頼されたら国民が守ってくれます。常に強がりを言うエリート の党でなく、身近な信頼される党になって欲しいと思います。

 不破さんは「レーニンと『資本論』」を執筆しているわけですから当然私など が紹介する文献などは何度も読んでいると思いますが、もし幹部の方で、まだ読 んでいないという方がいらっしゃいましたら、参考に読んでみて下さい。
 レーニンの時代と状況(政権党)も違いますが、「新経済政策(ネップ)」に 関して「後退の必要」を説いているところは今、私たちの現状に置き換えて読ん でみると含蓄のある内容です。ここに、その一部を採録しますが、全部読むこと をお勧めします。

「新経済政策と政治教育部の任務」(1921年10月17日)
 ”割当徴発は生産力の上昇を妨げて1921年春の経済的、政治的な危機の基 本的な原因となった。(経済戦線できわめて重大な経済的敗北をこうむった)。 新経済政策は戦略的な退却である。”
「第7回モスクワ県党会議 新経済政策について」(1921年10月29日)
 ”危険なのは敗北よりも、むしろ自分の敗北をみとめるのをおそれること、そ の敗北からすべての結論を引き出すのをおそれることである。……もし敗北をみと めると、陣地の明けわたしと同じように、士気の阻喪をおこし、闘争力をよわめ る結果になるという見解をとるとすれば、そんな革命家は三文の値うちもないと 言わなければならない。”

以上はほんの一部ですが、大月版「レーニン全集 第33巻」は上記のほか、 「ロシア共産党(ボ)第11回大会」(1922年3月27日ー4月2日)など 関係する文書がたくさん入っています。

川崎市 元党員 坂田等 記