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一般投稿欄

何故今この瞬間さざ波に憲法9条及び自衛隊パネルがないのか

2010/12/27 ZERO 30代

 確かに、レーニンというとバッハをキリスト教音楽として禁止にした程度の下 らない奴という先入観が強すぎて、私も著作に対して直面できないものがある し、げんに現代ロシアではボルシェビキについてそのように義務教育レベルで教 えているのだろう。
 普遍宗教及び宗教原理の研究に対して、マテリアリストが怠ってきたツケとい うものは確かにあるだろうが、これからそういうことは許さない。
 キリスト者片山潜の悪しき継承伝統。それは確かに指摘できるのだろう。
 それは石川啄木の時代閉塞の現状の文にも如実に顕れている。近世デュオニュ ソス研究の壁を自我で意識した天才の文だが、天才が何を書いたのか、一般的ア カミズムでは全く理解できたりしないのだ。
 本質的に論理学的修辞論の段階で議論をやっても社会は進歩したりはしない。
 しかし、野呂栄太郎の始めた講座派哲学が羽仁吾郎→内田義彦を経た、最大の 功労的中枢の大本であることは変わりようの無い事実である。
 そして宮本顕治も世界的事大主義の潮流に対して、敢然と立ち向かった日本建 国の巨大な英雄の一人である事はどう考えても間違いない。
 これを、公然と弾圧してきたのが、特高警察であり、それがまるごと鞍替った 母胎が、現自衛隊の創出である。
 それは、アメリカファシズムによる、日本ヘゲモニー潰しという。
 これの答は一つ、神社本庁国家神道および靖国神社宮司に社会主義者に対して 公式に謝罪させることである。
 そもそも、最初期の社会主義運動である全国水平社の活動とは葬式仏教の最大 閥浄土真宗本願寺に対するそういうものである。
 そういう中から国粋主義者西光万吉ようなものが大杉の弟子系として生まれた のだ。
 現今日本共産党の問題とは、民主集中制の問題という。
 それは実は違う。
 日本というのは、近代先進国中で「唯一」戦争犯罪者を、自国民自体が裁いて こなかった文化の国なのである。
 06年に早稲田大学での樋口陽一の講演を聴きに行った事があるのだが、山県 有朋と草の根憲法草案家との対談の記録の話しをしておられて、伊藤山県ライン にそもそも、吉野作造レベルの民本意識の議論があったということを言ってい た。現実にはそれは日本専制政治に対する9条の側の阿諛であり、伊藤は孝明天 皇暗殺指導者の憲法を作った自己保身主義者に過ぎない事が本性である。

 現天皇家が、国家神道に帰結する筋道をつくる再度の全国水平社的運動が起こ り、それが国境保安の友愛に再度帰すことがあるとき、アジア地域の革命は成 る。
 片山潜の継承論法も原理ではないだろう。原理ならば、個人宗教であるプロテ スタンティズムをもっと政治利用できて韓国と連携をとりつつ勢力が伸びたはず だ。旨くないね。
 何等事大安保主義者達を公然と非国民として批判できないようでは(安保既得 権益者に愛国があるわけがない)、どういう主義思想を誰がどのようにもってい ようが日本は終わりだ。ギリシャ哲学はギリシャ哲学であり、国家神道は国家神 道なのである。それが共産主義という問題である。
 ところで田母神論文に関しては、主体委譲をなんとも思わん靖国型狂信者であ ることは、理性を捨てない人間ならわかることだ。
 狂信者を相手にすることはない。神社本庁が責任をもって謝罪すればいい。そ うすればコミュニズムはなる。
 邦訳すれば、それは社中主義だ。

 腹蔵なく書いていくが、小林多喜二と顔の似てる小森陽一や、雨宮カリンのよ うなものが出てきている。
 それはつまり天台を含めた国家神道は、カラバ教学と差し向かって具体的な セッションが必要だということだ。
 日本における自治体の問題とは戦後民主主義教育における「単一民族幻想と政 教分離幻想」の両輪の問題である、と考える。雨宮カリンの共著のテーマは転向 右翼ではない。カラバ教学とのセッション論だ。それを佐高信にしろ意識してい ないとはまったく思えない。一応そのようなムスリム覚醒主義者は核弾頭を23 発くらったあとの社会で生き残りを考える最大の癌細胞である、とか書こうと 思ったが止めておく。

 まー国連憲章のセットである9条論が平和と革命の輸出系であることが、文民 統制である。
 JCPの問題とは民主集中制とはやはりないでしょう。本質は戦後民主主義教 育の考える能力に問題がある。
 例えばTPPは反対なのではない。「そんなものに加入できる農政いつやった んだ」とキレてるのだ。

 生協の謀略的な話がでてますが、体制順応主義としての、浄土真宗の「講」の 問題。そして、フランス社会学的友愛に対する、国際的解体と反動という時代的 な課題。何故友愛が解体されるかです。友愛はミスラの力。真宗は末法時代の限 界となるわけだが。
 左翼思想としてのイデアラインは埴谷→高橋で切れている。この二人ならば、 現今の革命思想に繋がる可能性としての”友愛解体問題”に取り組んだはずです。
 私もレーニン的な論理学的修辞に拘りますが、「日本が民主的でない理由」は 共産党が民主集中制的だからではない。それは戦後教育の両輪の課題である、単 一民族幻想と、政教分離幻想にある。